月曜日に老いたる父は
丑満時に老いた父の足音で目が覚める。御手水かなと思っていると、玄関を開け外に出て、すぐに戻ってきた。何事かと起き出して来た私と目が合うと「誰も居らんやった」と言う。怪訝そうな私の表情に気付き「ピンポン(呼鈴)鳴ったろ?」と言い、「寝惚けとっちゃろうね」と謝して寝床に戻っていった。
数ヶ月後、ふと目が覚めたまま布団の上に転がって寝付かれずにいた。時計を見ると丑満時。しばらくして父の足音がして玄関を開ける。すぐ戻ってきて「ピンポン鳴ったろ?」と言うので、今回は「いや、鳴ってないよ」ときっぱり答えた。寝惚けているのか、呆けているのか。そら寒さを覚えつつ寝た。
お盆が来たが、昔とは違い新型コロナという時世では、訪ねてくる人もほとんどいない。祖父母が代々受け継いで、私達に遺して行った風習がこういう形で綻んでいく事に、私はそれほど感傷を感じてはいない。ニューノーマルといった大仰な事ではなく、変化だとして受け容れる。集団接種会場で案内役の女性が、「本当に、嫌なものが流行りましたね」と言った。
ホドロフスキー。彼の『DUNE』は作られることがなかったが、その制作が座礁する瞬間を振り返って「Yes!」と叫び、その目に飛び切りの狂気を宿していた。幸であれ不幸であれ、やってきたものをやってきたまま一度受け取るというゲッシュ感が私にもある。
そういうお盆の丑満時に、ピンポンと聞こえて目が覚めた。玄関を見ると誰もいない。古い型の呼鈴なので風や小動物ごときでは鳴らせない固さを誇っている。それが二晩続けて起こった。せめて人影よ有ってくれと思った。寝惚けているのか、呆けているのかそれとも。怖さの質が変化していくという面妖な事象である。かつて私と同じ音を聞いたであろう父は、今朝はぐっすりと眠っている。
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