死に対する価値観の変化
ご無沙汰しております。
前回の更新からかなり経ってしまいました。
私は今34歳ですが、まだまだ未熟な部分が多いです。特にタイトルで書いた様なものに対しては…。生まれつきの持病とひたすら闘ってきた割には、尊さについて無関心というか。
正直つい最近までは「あ。死にたい」となる事なんてしょっちゅうでしたし、この先もあると思います。
こういうのに関して良く出てくる言葉は「死にたい」じゃなくて「消えたい」なんだよね〜
というもの。うーん。。。?
「消えたい」というか「逃げたい」というか?
でも逃げた所で、自身が変わらないと物事の根本は解決しない事なんて判り切ってますからねぇ。。。
(これを悟ってから自傷は無くなったけど、しょっちゅう頭の中では自分の身体がバラバラになるイメージとか、大切な人にゆっくり静かに殺して貰いたいという様な妄想?はありましたね)
私の場合はとにかくそれを人様に迷惑かけないようにと方法を考えてる内に諦めがつく事が多かったです。
具体的に考えれてる内は大丈夫だという判断のもと、今までのほほんと生きて来ましたが。
今月前半に2泊3日で入院(検査手術)してまして。
その間がなんかアレでした。
急に「あ、死にたい」ってなってましたね。
暇だったからかも?(笑)
色々時間を潰すものは持って行ってたのですが、入院2日前に自転車で単体事故をして満身創痍だった事もあり、何かに没頭する気力はあまりありませんでした😅
後は、4人部屋で私以外の患者さんは結構大変な手術だったのもありますね。
色々聞こえて来てメンタルやられました💦
前回の入院(過去2回は救急からそのまま…というパターンが多く計画入院は初めて)は1週間で個室だったので、2泊3日なら今回も個室にすれば良かったという後悔もありました。
次回はもう少し考えて選ぼう。
高いからね💦贅沢は言えませんがね💦
大部屋?にも良い事はありました。
退院時に1人だけ世間話をする事が出来た患者さんがいまして。互いの経験などを話したのですが。共有出来るって大切だなと思いました。
親しい間柄だからこそ、気遣う事。伝えれない事やもどかしい事ってありますからね。。。
実際?私は現夫(前夫の時もかな)以外の身内には何も詳しい報告をしてませんでした。
30歳前後からの入院諸々は全く…😓
だって連絡したら泣くんだもの。
血の繋がっていない、育ての父が特に心配性で💦まぁありがたい事なのですが。
大切な人が自分の事で悲しむのって。罪悪感がすごいです💦
でも、こういう感情が出て来たのもこの数年かも知れません。
自己顕示欲が強かったのかな?
今までは「私、必要とされてるんだ」という安心や嬉しさの方が強かったかも知れません。
これは死に対する価値観にも影響しているかも。
とにかく入院が必要な理由に関して、自分の中では
「まだ大丈夫。そんなおおごとじゃない」
と思ってたのもあり、極力心配はかけたくないと言う事から報告はせず…。
退院してまた色々状況が変わった今もまだ少し悩んでいますね。今後精神的に余裕がなくなるかも知れないので、周りにあれこれ言われたくないのと、もっと情報が欲しいというのと。
葛藤してます。
10月初旬にはセカンドオピニオンを受れる様に主治医が準備をして下さっているので、受けてから詳しい報告をしても良いかなと考えています。
死に対する価値観の変化ですが、死にたいと思いつつ、自分の何もかもが消えるという事に対して漠然とした恐怖はあったんですよ。
「思考なども消えてしまうのかな?じゃあ何のために生まれて存在しているの?」って。
これも、承認欲求のうちの1つですね。
それがいつからか「どんだけ辛く苦しくても、いつかは何も判らなくなる。解放される時が来るなら、いいか😇」
という方向になり…。
「自分は楽になれるから良いけど、残した人が辛いのは嫌だし、そうなるなら出来るだけ何か救いを残して行きたい。」
と思う様になりましたね。
私の中にある微弱な責任感が強くなったのならヨシかなと思います(笑)
今までが無さすぎたんだよなぁ。反省です😅
病気の詳しいところはこの次の記事で書きます。私自身、入院前後からネット検索しまくって同じような体験をされたのブログ記事にとても救われたので。何か参考になればと思います。
元々10月初旬の時に検査結果など聞く予定だったのが、手術経過観察中に異常を感じ受診したら、もう結果が出ていて心の準備出来ないまま聞いちゃったので。
色々定まっていない所もあります💦
頭と心を整理して、病気以外の大切な事もどうして行きたいか考えてます。
死と、日常の変化は切り離せません。
結局一番怖いのって今ある幸せが無くなってしまう事だよなぁと感じてます。
これは病気とか関係なく誰でも起こりうる事なのですが、普段から意識するのは難しいですよね。