鏡のない世界で 4.4
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蛇口から出る水の勢いある音が、直接心臓を打っているかのように強く響いてくる。
眼前にある細い背中を捉えたと同時に、僕は杏奈に駆け寄っていた。
背中が僅かに上下している。息をしている。
どうしよう。助けを呼ばないと。
でも。
僕は声が出ない。助けを呼べない。
外に行けない。
なぜ?
そうだなぜ、外に出れない?
なぜ、僕はずっとこの部屋にいるんだ?
思えば出かけたことなんてなかった。
記憶のある頃には、僕はもうここに杏奈と居た。
生まれた時のことは覚えていない。
病気になっても医者がこの部屋まで来ていた。
いつだって僕の世界は此処だけだった。
此処しかしらない。
わからない。
いくら思い出そうとしても、何も出てこない。
なぜ、そこに疑問を抱くこともなかったのだろうか。
怖い。
でも、杏奈が。
そうだ、今はそれよりも、杏奈を助けなくては。
杏奈が死んでしまう。
混乱する中、助けを求めるには外に行くしかないことだけが強くなっていく。
玄関に向かう。
あれ?
ドアノブが、なんであんなに高いんだ?
幾ら手を伸ばしても届かない。
視界が低い。
おかしい。
これでは外に出られない。
混乱と焦りが波のように押し寄せて流されそうだ。
どうしよう。
そうだ、障害者向けの119番システムがあると聞いたことがある。
杏奈のスマホを使えば、それで救急車を呼べるかもしれない。
浴室に戻り、辺りを見回すと、洗面台の小さなカウンターにスマホを見つけた。
顔しか映らない小さな鏡だ。便座と浴槽の間、ちょうど杏奈の顔の高さにそれはあった。
必死に便座によじ登り、洗面台にあったスマホを取ろうとして、僕はふと鏡をみた。
この家に鏡はここだけだった。
だから自分の姿を、意識を持って見たことは、実は一度もなかった。
自分が他人の眼にどう映っているのかなんて、考えたことなかったんだ。
あぁ、そうか。
僕は、人間じゃなかったんだ。
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