鏡のない世界で 4.2
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彼女が泣き崩れた日と同じ曜日を迎えた。
いつもならデートの日。色めきだった空気が朝から充満し、身支度を終えて「行ってきます」に向けて最終段階に入っている時間。
彼女は家に居る。ベッドの中に。
今週はずっと、学校も休んでいた。
トイレなどの必要以外は、ベッドから出てこない。
ほとんど食事をとっていない。声も聞いていない。
はじめのうちは時折、鼻を啜る音が布団の中から漏れていたが、今はそれもない。
友達からだろうか、メッセージ受信を知らせるバイブ音が何回も鳴っていたが、彼女がそれを開けることはなく、やがて電源が落ちた。
声がききたい。
原因はわかっている。1つしかない。あの男が何かしたのだ。杏奈をここまでにする何かを。
けれどその何かまではわからない。杏奈が話してくれないかぎり、僕は知る術を持っていない。
何もできない自分に、心底腹が立つ。
こんなことになるなら、もっとちゃんと話を聞いておけば良かった。
逃げていなければ、もう少し情報があったもしれないのに。
この件の話を杏奈がし出すと、僕はどうしても顔を背けてしまっていた。
正直こんな彼女の姿を目の当たりにしている今でも、それがすべて消えたかというと噓になる。
一緒に暮らしている僕がいるのに、彼氏ができたと話した杏奈。
土曜日の孤独、置いていかれた寂しさ、すれ違う感情、近くても遠い距離。
日常として受け入れ始めてはいても、辛さは未だ拭えずにいる。
ただ彼女のそばに居ることしかできない。僕の時間も止まったままだ。
混沌が肺に渦まく中、それでも衰弱していく体も痛々しくて、そろそろ本気で焦りが出てきていた。
夜中、瞼に明かりを感じ目を開けると、スマホのブルーライトに照らされてた杏奈の顔があった。
ベッドの上で上半身だけ起こし、枕元には買い置きしていたオレンジのシロップ漬けとカロリーメイトの封が切られている。
良かった、少しでも食べられたようだ。食という欲を出せたことに安心して、思わずこぼれた吐息に杏奈が気づき、こちらに顔を向けた。
正面から見る杏奈の顔は、ひと回り削いだように小さくなっていて、でも久々に僕を見てくれたことが嬉しくて、肺と瞼に熱いものがじわりと広がっていく。
それが体外に漏れるのを堪えながら、そっとベッドの横に行き腰を下ろした。
弱々しい彼女の手が、そっと僕の頬に当てられた。
触れられたのは、どれくらいぶりだろう。
その手に寄りかかるように目を閉じ、出ない声の代わりに喉を鳴らす。
「おはよう、楓太」
真夜中の月あかりの中、彼女はそんなことを言う。そしてポツリポツリと、静かに話し始めた。
「私ね、私だけだと思ってたの。彼の彼女。
普通、そういうものじゃない?はじめに疑問なんて抱かないじゃない?
でもね、私だけじゃなかった。
私以外にも居たの。もうひとり。
その人は、自分だけじゃないの知ってたみたい。でも、私は知らなかった。告白された時も、当たり前だけど、言われなかったし、聞きもしなかった。
先週待ち合わせ場所に向かう途中、偶然その人の車から降りる彼を見ちゃって。帰ろうかとも思ったんだけど、それじゃダメな気がして、デートして、思い切って聞いたの。そうしたら彼、とてもあっさりしてて。僕ははじめからそういうスタンスのつもりだったんだけどみたいな感じで。
意味わかんないって言ったら、そっか、じゃぁなんか悪い気もするし、別れた方が良いのかな。杏奈のことは大好きだけど、辛くなるようなことはしたくないし。って、すごく優しく言ったのよ。」
杏奈の声が、細く震えて、でも大きくなっていく。
「あんなに好きになったの、初めてだったんだ。本当に幸せだったの。優しくて、楽しくて、いつも私のこと気づかってくれて。
だからもう、悲しくて、辛くて。でもなんか、責めれなくて。あんまり平然と言われるから、私のためのように言うから。なんか私がおかしいのかって思えてきちゃって。独りになったら、もっと混乱しちゃって。」
彼女の眼から零れる涙を見ながら、僕の心は9割の怒りで目の前が真っ赤に染まり、1割の憤りで心が黒く濁る。
「楓太、私、どうしよう。許せないのに、別れるって言えない。あんな顔されて、苦しいのに、まだ好きで、好きで…。」
栓が抜けたように話し、しばらく泣いたあと、彼女はまたスイッチが切れたように眠った。
目頭に残った涙を見ながら、僕は混乱する心をなだめていた。