グスコーブドリの伝記と福島原発についての考察
『グスコーブドリの伝記』は、大正時代に活動した作家・宮沢賢治によって書かれた童話。1932年(昭和7年)4月に刊行された雑誌『児童文学』に発表された賢治の生前発表された数少ない童話の一つでもある。
グスコーブドリはイーハトーブの森に暮らす樵(きこり)の息子として生まれ、冷害による飢饉で両親を失い、妹と生き別れた。(後に再会を果たす)
ブドリは、工場労働者として拾われるも火山噴火の影響で工場が閉鎖し、農業に携わったのち、クーボー大博士に出会い学問の道に入る。
ブドリは課程の修了後、ペンネン老技師のもとでイーハトーブ火山局の技師となり、噴火被害の軽減や人工降雨を利用した施肥などを実現させる。
彼が27歳のとき、イーハトーブはまたしても深刻な冷害に見舞われる。
カルボナード火山を人工的に爆発させることで大量の炭酸ガスを放出させ、その温室効果によってイーハトーブを暖められないか、ブドリは飢饉を回避する方法を提案する。
しかし、クーボー博士の見積もりでは、その実行に際して誰か一人は噴火から逃げることができなかった。
犠牲を覚悟したブドリは、彼の才能を高く評価するが故に止めようとするクーボー博士やペンネン老技師を説得し、最後の一人として火山に残った。ブドリが火山を爆発させると、冷害は食い止められ、イーハトーブは救われたのだった。『Wikipedia』より抜粋
東日本大震災から10年が経つ。
もう10年が過ぎたか、という感慨と、復興が進まない現状、仮設住宅から避難困難区域に戻ってきた人たちの現状を
メディアで目の当たりにするたびに思うことがあった。
これは、宮澤賢治の描いた『グスコーブドリの伝記』のリアル版では無いかと。
原作では、火山爆発による冷害をカルボナード火山を人工的に爆発させることで大量の炭酸ガスを放出させ、その温室効果によってイーハトーブを暖められないかというブドリの飢饉回避法として、人工的に火山爆発をさせ、ブドリが自己犠牲を負う事でイーハトーブは救われるのであるが、
東京に送電する為に原発を福島に持って来て、その犠牲になった福島浜通りの人たちの苦悩を思うと、グスコーブドリの自己犠牲の姿がオーバーラップして、とても心が痛むのである。
原発を受け入れた為に浜通りは、雇用を確保され、原発給付金を支給される。
原発給付金は原発マネーと呼ばれ、
「原発マネー」のうち自治体財政に影響を及ぼすものは、
①電源三法による交付金、
②原発関連施設の固定資産税、
③電力会社からの寄付金、の3種類が主なものである。
これらのお金は、自治体財政を潤し、地域振興に役立っていた。
そう言えば、大熊町には東電のサッカー場があった。
ようするに、原発を受け入れるという事は、その給付金を支給されても余りある危険を受け入れる事なのですよ、という
暗黙の了解がなされていたという訳である。
わたしは、物質的なものには殆ど興味がないので、ここで言うべきは、原発マネー云々という話題では無い。
しかし、現実にお金は動いていたのだから、その事実だけは記しておこう、という程度のものである。
東北人は、視野が狭く、視点が低い。自分も東北人なので、東北人以外の人からそう指摘された時には何も言えなかった。
東北人はただ、ただ、辛抱する。村の為には自己犠牲をも厭わない。
それは、農村という狭い土地柄、冷害に怯えながら飢饉に甘んじた、東北人ならではのメンタリティなのだろう。
福島は東京からおよそ200kmという至近距離に位置し、海岸線が本州一長い。
その土地を確保して、東京に送電するための電気を原子力発電に頼るのは、利害重視の国にとっては恰好の場所だったのだろう。
結果として、福島浜通りの原発村の人たちは、自ら望む事なく、グスコーブドリにされてしまった。
わたしは今も覚えている。
震災当時、福島の会津地方に住んでいたわたしは、原発事故が起こった数日後、庭に出て外仕事をしていた時に浪江の避難民に遭遇した。
まだ若い女性がひとり。老人介護施設の介護担当者を名乗っていた。浪江から会津地方に避難してきたという。
「どこかに、体調の悪い介護老人を収容してくれる病院はありませんか?」
彼女は祈るような視線でわたしを見た。
当時住んでいた持家から徒歩で3分のところに、老人介護施設を併設した、町立の診療所があるから、そこで相談してみると良い、と答えた。
「ありがとうございます」
彼女は歩いて、診療所に向かう。
やや暫くして、家に入ると今度は玄関のチャイムが鳴る。
「すみません。診療所では受け入れられないと拒否されてしまったんです。どこか大きな病院は心あたりないでしょうか?」
わたしは彼女を家に招き入れ、車で10分ほどの、中央病院というところがあるから、そこに電話してみる、と答えた。
事の次第を病院に伝えると、応対に出た看護師長が、「施設の方を出してください」と言う。
微かな光が見えたと思い、施設の女性に電話口に出てもらう。
どうやら、受け入れてもらえそうな気配である。
電話をし終わり、彼女は「受け入れてもらえるそうです。ありがとうございます」
そう言って、何度もお辞儀をしながら家を出て行った。
彼女に、何の落ち度があると言うのか?
自分の家庭も顧みず、自分の仕事を全うしようと奔走している彼女に。
これはほんの氷山の一角であるが、震災当時はこのような、光景がどこにでもあったのである。
原発事故にまつわる、保証問題の格差、帰還困難地域を処理場中間施設にする問題、故郷を離れて心もとない気持ちでいた子供達が、放射能が移ると、差別された心の傷。
福島は、あらゆる意味で、中央のゴミ捨て場では無い。
そこには、確かに生活があり、人びとが、生き生きと暮らしていたのだ。
人間は、感情の動物である。
グスコーブドリのように高い視点から自己犠牲を強いられる理由はない。
冷害は自然現象であるが、原発事故は人災である。
わたしは、脱原発派でもないし、原発推進派でもない。
原発事故について、何も語れる資格は無い。
しかしながら、やはり感情を持った、愚かな人間の一人であるからこそ、言えるのは、
誰も犠牲にならない社会を構築出来れば良いのに、と言う願望だけである。
100年以上前に生きていた、宮澤賢治がグスコーブドリの伝記でいいたかったのは、その事ではないのか?
誰一人として、犠牲になって欲しくは無い。だからこそ自分が犠牲になる。
世紀を超えた賢治の慧眼を、震災10年の節目として、改めて思考してみた。
論理に欠ける部分が多かったと思うが、言語化できない、祈りの部分を行間に捧げたい。