見出し画像

死ぬ事ばかり考えてしまうのはきっと生きることに真面目すぎるから

2021年8月10日、午前11時28分。
娘から来た一本の電話。

「凛が猪苗代湖で水難事故に遭って行方不明になってるの、どうしよう」

一瞬耳を疑った。
え?

それと同時にわたしは娘に言った。

大丈夫だから、と。

息子の凛太郎は1997年9月30日生まれ。
今年で24歳の誕生日を迎えるはずだった。

消防、警察、70人体制で一斉捜索が行われた。

わたしは、連絡を受けた翌日、8月11日に息子と離婚した夫が住む福島の磐梯町の元住んでいた家に向かった。

元夫が郡山まで出向いて車でピックアップしてくれた。

不思議な気持ちがした。

元夫とは離婚して6年になる。
それなのに、その空白を乗り越えて、わたし達は今この瞬間、まるで昨日もそうだったように、車に同乗している。

夢を見ているような気持ちがする。

そうだ、これは夢に違いない。限りなく現実に近い明晰夢。

しかし、それは夢ではない事が、猪苗代湖畔の小石が浜にたどり着いた瞬間、理解できた。

警察や消防の車両、ヘリコプター、沖を走るジェットスキー。

息子を捜索しているのだ。

夢だといい。
きっとこれは夢だ。

わたしは、一人暮らしをしている都内板橋区のアパートで、布団の中にいる。

今は朝だ、目を覚まさなきゃ。
けれども目を覚まそうとしているわたしは、とっくに目を覚まして、湖畔の浜にしゃがみ込んで、捜索の様子を眺めている。

結局、10日間息子は発見されなかった。

息子の友人、野球チームや、マラソンや、ボードの仲間たちが、警察の捜索を終えた午後5時以降も、捜査を続けてくれた。

消防のスキューバ隊に、息子の高校時代に野球部の先輩だった青年が居た。

覚えてますか?とわたしに話しかけてくれた。

わたしは息子の高校球児時代に、野球部の保護者会で会計をして、チームの子供達の顔は覚えていたので、彼のことはすぐにわかった。

「T君ね、覚えてますよ。立派になって。息子の捜索をしてくれてありがとう」

彼は、スキューバスーツを脱ぎながら、

「仕事だから、当然のことです。でもまさか凛太郎がこんな事になるとは、とてもショックです」
と答えた。

「T君、でもまだ水の中にはいなかったんでしょう?ほんとはね、ほっとしてるのよ、見つからないということは、どこかで生きてるという希望が持てるから」

「そうですよね、凛太郎は生きてると思いたいです」

T君は、目を潤ませながらそう言った。

捜索が10日過ぎた。

わたしは、福島に3日滞在したのち、一旦都内に戻り、事の次第の展開を待った。

20日、
息子が見つかった、と娘からLINEがあった。

翌日、わたしは都内の横浜寄りに住む娘と、大宮で落ち合い、福島の会津若松に向かった。

息子は既に司法解剖を終え、棺の中に、二重の不織布に包まれたまま、横たわっていた。

顔は見なかった。

元夫が、息子が発見された現場に向かい、警察に遺体を引き取られる直前に息子の顔を確認していたからである。

遺体は既に腐敗が進んでいたらしい。


「見ない方がいいと思います」と制止する警察官に、

「馬鹿野郎、息子の顔を見るのは親として当然の事だ」
そうゴリ押しして、息子と対面したという。

「腐敗していたけど、顔を見たら、なんだかほっとしたような顔をしていたから、あいつは仲間の戻って来い!との思いに応えて、必死で戻って来たんだと思う」

元夫はそう言っていた。

突然のことだったので、表だった葬儀はしなかった。

しかし、既に地方新聞とテレビで、息子の名前とともに水難事故のニュースとして取り上げられていたので、

息子のインスタグラムとTwitterを通して、娘には1000人近い人数の発信が届いていた。

葬儀場所も告知しないのに、息子のボード仲間や野球チームや、マラソンチームの友人に情報が拡散して、斎場の安置所には、500人を超える、彼の友人がお焼香に足を運んでくれた。

中には北海道、長野、神奈川、都内、茨城、その他
遠方からたくさんの友人が訪れてくれた。息子は愛されていた。

足を運んでくださった皆様には感謝しかない。

わたしは、離婚後、息子とはほとんど接触がなかったので、スノボやサップボートや野球やマラソンなどをしていることは薄々、聴いていたが、これほどたくさんの友人と交流があったとは思っても見なかった。

わたしが、最後に、息子と直に会ったのは、昨年の11月の連休ころだと思う。

その日、息子から電話が来て、今都内の渋谷で友人と会っているから、明日、ママのところに行ってもいい?

という唐突な電話が来た。

電話の翌日、わたし達はJR池袋駅の東口で落ち合った。黒いリュックに青のネルシャツ、茶色のニット帽の息子は、わたしを見るとはにかんだような顔で、お。と呟く。
西武デパートの信号を渡った先の、フランチャイズのスタミナ丼の店で、2人でステーキ丼を食べ、わたしは離婚後に一年半付き合ったが、病気で亡くなってしまった元彼の話をポツポツしたりした。
「その、彼は10歳くらい年下だったから、婆さんとかディスられたりしてね」
などと冗談めかして言うと、

息子は本気で怒った。

「人の母親をなんだと思っているんだ」と。

それはまるで、父親が娘の彼氏をディスるみたいな言い方をしたので、笑えると同時に安らかな安心感を覚えたりした。

男の子はこう言うところがほっこりする。

ステーキ丼のお会計は息子に奢ってもらい、その足で吉祥寺に行ってみたいと言うので、電車で吉祥寺まで行き、

なんとなく付近を散策して、ドトールで2人でタバコを吸いながら、特に何も話すことなく、コーヒーを飲んだ。
昨夜は、夜通し渋谷で友人と飲んだので、眠りたいと息子が言うので、2人で
その足で、板橋のわたしの部屋に戻った。

風呂上がりにボソボソと息子が言うには、

昨夜は一晩中、友達と渋谷で飲み、ネットカフェで泊まったという事。


「あんた、馬鹿だね、こっちに来たのに、ネカフェで泊まるなんて。すぐにママに電話くれたら、渋谷に迎えに行ったのに」

やれやれ、相変わらず無鉄砲な息子だと思いながら、軽く叱ったのを覚えている。

きっと、息子には息子にしかわからない、悩みがあったのだろうと思う。

高校2年で父母が離婚して、
家族というものに愛想を尽かし、彼は仲間という家族に育てて貰っていたのだろう。

そう考えると居た堪れない。

離婚する時に、親権を父に選んだのは息子だった。

父親を選べば、大学進学が可能だからだと思って選んだのだ。

しかし、父親は、自分が大卒でしかも教職についているのにもかかわらず、息子を進学させなかった。

野球部があるから、H自動車が良いと思って、そこに就職させた。

わたしがその話を聴いた時、わたしは何故息子の親権を勝ち取らなかったのかと悔やんだ。

わたしは甘かった。夫の自己中心的な性格を的確に把握していなかった。


わたしと元夫との離婚原因は夫のわたしに対するDVだった。

離婚調停の時に夫は、慰謝料の請求には応じず、
ただ、自分が仕事でストレスを感じていたのを、相手方、つまりわたしに意味なくぶつけていた、という事実だけを認めた。

その事実の実態は、わたしに対する、殺人未遂で、わたしは、真冬の寒い中、風呂場に連れ込まれて、水の張ってある風呂に頭を突っ込まれて溺れさせられそうになったのだ。

事件化して、元夫は逮捕された。
地検で、起訴するかどうか聞かれたとき、わたしは未成年の息子の将来を思い、起訴ではなく、措置入院で、精神病院に4カ月の入院をさせて、服薬させることを希望した。

夫が精神病院に入院中にわたしは、西会津経由で新潟に逃げた。

新潟在住の間に、離婚調停をし、弁護士を立てて、慰謝料三百万は取れる案件だと保証されたにもかかわらず、わたしは一銭の保証もなく、子供の親権を明け渡したのである。

夫は、起訴されずに、精神病院に入院した結果、心神喪失状態と判断されて、教職を失うことはなかった。

後に聞く事によれば、いい先生だから、やめさせないでくれと生徒や保護者から嘆願書の署名がされていたらしい。


そんなことはどうでもいい。わたしが理解したのは、他人は、自分達に利益が有れば、利益を与える人間がどのような犯罪を冒しても関係ない、という判断をするのだなと言う事実を知っただけである。DVは犯罪である。

それにもかかわらず、学校がくだした判断は、家庭内のことだから仕事上不都合な事実があったわけではない。したがって、休職の後、復帰を許される。

被害者であるわたしの人権はどうでもいいのだ。わたしは、元夫の感情のゴミ箱ではない。他人を感情のゴミ箱に利用するような人間が教壇に立つ事を許すと言う教育委員会、ひいては文科省の判断には異を唱えたい。

そんな教育者を擁護するような社会は既に腐敗している。


わたしの予想通り、夫は息子の進学には一切手を貸すことはなかった。


蓋を開ければ子供の進学は後破産、息子は父親に従って、進学を諦め、就職を余儀なくされた。

そのような経緯があり、わたしは、息子の行方不明の間に、元夫にこう言った。

「あなたが、凛太郎を殺したのよ、娘に児童虐待をして、地検で今度やったら逮捕と言われて、それにも関わらず、わたしを溺死させようとして、凛太郎を大学に行かせてやればこんな状況は避けられた。
凛太郎はあなたがストレスだったのよ、わたしを溺死させようとしたから、凛太郎が代わりに溺死したのよ。『あなたが凛太郎を殺した』」

息子の死因は窒息死だった。

斎場で、息子とともに現地に居た、サップボードの会社の社長が、息子のピンナップ写真を写真立てに入れて、わたしに渡してくれた。

「この度は、こんな事になってしまい、お母さんには本当に申し訳ありません。
8月11日の事をお話します。
凛太郎が、午前中、小石が浜に来まして、挨拶しました。今日は仕事は終わったのか?と聞くと、終わりました、と応えました。そして、少し浜で遊んで行ってもいいですか?というので、天気も良かったし、波も穏やかだったので、サップボードの講習生がいましたが、一緒に、遊んで行っていいよ。と応えました。
凛太郎は人懐こい子ですぐに講習生と打ち解けて、サップボードの講習の手伝いがてら、遊んでいました。
救命胴衣はつけていませんでした。
天候も波も穏やかだったのですが、沖には出ないように、そして足枷は外さないようにと注意喚起はしていました。
ところが、急に天候が変わり、高波が押し寄せてきました。凛太郎は2人を救い出しボートに乗せて、もう1人がなかなか救えず手こずり、その講習生の足枷が外れた為、自分の足枷を講習生につけてやり、自分はボードに必死で捕まっていました。側までボートで近づこうとしましたが、波が荒くて近づけませんでした。そのうち、目の前で凛太郎の手からボードが離れて、水面に吸い込まれる瞬間を見ました。どうにかしてやりたくても、波が高くて近づけませんでした
お母さん、本当にごめんなさい」

「謝らないでください。誰のせいでも無いんです。強いて言うなら、自然を甘く見て、救命胴衣も付けず、足枷は絶対外さないようにと言われたにも関わらず、足枷を外した凛太郎の責任です。いえ、そうではありません、凛太郎も悪くはなかったんです。人を助けようとしたんですから、自然の前に人は無力なんです。誰のせいでもありません」

そう言った瞬間、わたしは思った。

そう、誰のせいでも無い。

人は生まれるのも死ぬのもひとりなのだ。

自然の前に、生まれようとする命を元の子宮に戻すことは出来ないし、

死にゆく命を、生きながらえさせる事もできはしないのだ。それが、若かろうと、年老いていようとも。


朝、起きて一番始めに思うこと

「あ、りんちゃん、もう居ないんだ」


けれども、わたしはそれを悲しいとも、辛いとも思わない。

凛太郎は凛太郎がすべき事を淡々とやり遂げただけだ。

そして、その結果が、この世界からのお別れだっただけなのだ。

ある意味、彼は人生の
「飛び級」をしてしまったんだろう。

だって、自分の命を投げ打って他人を3人も救うなんて崇高な事、誰にも出来る事じゃ無い。

彼は若くして、人格者だったのだ。人生の課題をサクッと仕上げて、悠然と旅だったのだ。

素晴らしい人生の成功者なのだ。

わたしは、彼を産んだ事を誇りに思う。

と、言うか、わたしを選んで産まれて来てくれた彼に感謝をしたい。

ママはまだ落第続きだけど、りんちゃんみたいにたくさん友達作って、やりたい事やり尽くす人生にシフトしていくからね。

次の人生でもわたしはきっと息子と近い関係に産まれて来ると信じている。

少しのお別れね。宇宙には時間がないからね。

ある日、ふと午睡の夢から覚めたら
またりんちゃんに会えるんだって
わたしは思っている。

りんちゃん、いってらっしゃい。
また池袋でデートしようね。

写真立ての笑顔の息子を見つめながら、
わたしは呟くのだ。

いいなと思ったら応援しよう!