天使がつたえたかったこと
「天使というのはひかりのことなのよ」と彼女は言った。
「ほら、今あなたの肩にのって、ジャンピングしているわ」
そういわれても、肩になにか乗っかっている気はしない。
「心に念じるの。天使さん、私が本当に欲しいものはなんですか?って。
聞けば天使は応えてくれるわよ」そう言って彼女は消えた。
彼女は消えたけれど、言葉だけが残った。文字になって、空にちかちか浮かんでいた。
「天使さん、私が本当に欲しいものはなんですか」
私は心の中で念じてみた。念じたけれども、何も聞こえてこなかった。
川原の土手には桜並木が連なっていた。風に揺れて木がたわみ、川面に触れそうだった。
花弁がひらひら、舞って川面に落ちた。
生暖かい風が吹いていた。暑いくらいだった。
私は川原の道を淡々と歩いていた。
彼女に、いつ出会ったのか思い出せない。それに彼女が誰だったのかも。
ときどき、私はそういうことに出くわす。
もしかしたら彼女にはまだ出会っていないのかもしれない。
これから出会う人を予兆のように呼び出したのかもしれない。
春先は記憶があいまいになる。時間が揺らいでいるような気がする。
いつも私は曖昧に生きている。曖昧に生きているのに何とか生きながらえている。
これはどうしたことだろう。仕事もしていないし、お金も持っていない。住むべき場所も決まっていない。でもなんとなく、川原沿いのマンションに住んでいる。
あ、そうだ。誰かが「ここに居てもいいよ」と言ってくれていたんだっけ。
その人は自分が部屋の主なのに、いつも帰ってこない。
「掃除と洗濯と飯だけ作ってくれたら、好きなだけここに居ていいよ」
そう言ってくれたんだっけ。
その人は帰りがいつも深夜になる。
深夜2時を過ぎると「これから帰ります」とメールが来る。
メールが来ると私は作っておいたご飯のおかずを電子レンジにかける。
チーン、と音がするのと、その人が部屋のドアを開けるのはいつも同じくらいのタイミングだった。
その人について私は何も知らない。
横浜の曙町の店にいる、としか聞いていない。そこがどんな店か、何をしているのか何も話してくれない。
何も話さないということは「話さなくてもよい」ことで、そこに私が居ていいこととは、何の関係もないらしかった。
「天使さん、私が本当に欲しいものはなんですか」
私は声に出して尋ねてみる。
欲しい物が何かわからない。
ただ、今のいま、こうして川原を歩いて散歩できているということだけで十分だ。
私には過去の記憶がない。一緒にいる人が誰なのかも知らない。
部屋主はそんなことは知らなくてもいい、という。
自由にここで暮らしていいよ、としか言わない。
不思議なことなのだけれども、私には不思議なことだとは思えない。
ここに住む必要があるから住んでいるだけで、それ以上のことを考えるのは無意味だ。第一、 ここを追い出されたら私はどこにも住むところがない。
ああ、そうか。ふいに合点がいった。
「天使さん、天使さん、わかりました」
「私が欲しいものはお家でした。そして今、住むべきお家がここにあります。ありがとう」
桜並木の木漏れ日がちかちか光る。天使が一斉に笑っていたのに違いない。