雪華譚
去年の4月のことだった。
コロナの影響で暫く高校は
臨時休校になる事に決まった。
2年生だったわたしは合唱部に所属し、アルトのパートリーダーをしていた。
11月に開催予定の合唱コンクールに出場する曲の楽譜が渡され、休校中に各パートのユニゾンを自主練するように部活の顧問から言い渡されていた。
同じクラスの合唱部の友人と帰宅する際、音楽室に課題曲の楽譜を挟んだファイルを忘れた事に気がついた。
友人は、学校帰りにピアノのレッスンに通っていたので、わたしは彼女を先に帰るように促し、1人で音楽室に向かった。
普段なら、放課後の部活でざわついている校庭も、体育館に続く通路も、ひっそりと静まりかえり、異世界に陥ったかのような奇妙な気配が漂っている。
わたしは、2階の音楽室の階段を一段跳びで上がって行った。
誰もいない校舎内にひとりでいるのが、心ぼそく感じられたからだ。
職員室から借りて来た音楽室の鍵も出来るだけ早く返さないといけない。
先生たちも、残っている人数は数名で、わたしが音楽室の鍵を借りに行った時、迷惑そうな顔で貸し出しを受けたからである。
校舎内の北の端にある音楽室にたどり着き、扉に鍵を差し込むと、わたしは違和感を感じて、一旦差し込んだ鍵をそっと抜いた。
鍵が開いている。
不思議に思いながら、そっと音楽室の引き戸を開ける。
すると、誰も居ないはずの音楽室に人の気配がした。
カタンと音がした。グランドピアノの蓋が持ち上がったような音だ。
ピアノには普段はカバーがかけてあるのに、気づいたら黒い鏡のようなピアノの
本体が、窓から差し込む夕日にキラリと光った。
ポロンとすずが転がるような単音が響いた。
「誰かいるんですか?」
わたしはオドオドと声をかけた。
声はなかった。
ポロンと響いた単音が、アルペジオになり、繊細な和音に変化する。
暫く、ポロポロと響くアルペジオが、次第にメロディを作り上げて行く。
聴いたことがあるJポップだった。
わたしはそっと、グランドピアノの横にあゆみ寄り、ピアノを弾いている主の横顔を盗み見た。
同じクラスの川西圭吾という男子生徒だった。
川西圭吾は、クラスの一番後ろの席に座っている生徒で、誰とも話さない事で有名な、陰気な生徒だった。
「あいつ、何考えてるかわからないよな」
親しい男子生徒もおらず、その陰のある横顔がいい、と一部の女子からは好意的に見られていたが、大方の認識はいわゆる陰キャで通っていた。
だからと言って、誰かに危害を加えるわけでもない。
昼休みには、いつも1人で購買のパンを3個買ってくる。
窓側の一番後ろの席で、ぼんやりと空を眺めながら、モグモグと口を動かしている様は、時にラクダのような偶蹄目を彷彿とさせる。
伏目がちの目の睫毛が異様に長いな、とわたしは彼を密かに観察していた事がある。
誰とも話さないので、彼の声を聴くことも少ない。
たまに英語のリーダーで指されて、音読をする事があるけれど、声が低いのと、やたら早口なので聴き取りにくい。
ところが、バイリンガルの帰国子女の若い女性教師は彼の発音をえらく絶賛して、褒めちぎる。
褒められても別に彼は嬉しそうな顔もせずに、黙って席に座っている。
そんな川西圭吾を、彼は教室の置物みたいな存在だとわたしは思っていた。
川西圭吾は、ピアノが弾けるんだ。わたしは彼の秘密を知ってしまったかのようなバツの悪い思いをしながら、彼の演奏にひとり聴き入る。
確か、これは「雪の華」という歌だ。
ピアノが、白い雪を降らせ始める。
初めは、細かな霧雨だったのに、次第にそれが白い粒に変化して行く。
ひとひら、ふたひら、雪の花びらが薄いグレーの空から舞い降りる。
恋人達が寄り添って、笑いながら何かを囁いている画が見える。
雪なのに、暖かそうだ。
なんだろう?この懐かしいような、甘いような、暖かいような気持ちは?
音楽室の窓が開いている。
開いた窓から、ひとひら、ふたひら、雪の華が舞い込んでくる。
いや、違う。葉桜間近の
白いソメイヨシノの花びらだ。
『もし、君を失ったとしたなら星になって君を照らすだろう』
え?今歌が聞こえた。
聴いたことがない男性の声。
線の細いカウンターテナー。
まさか、川西圭吾が歌っている?ピアノを弾きながら?
ありえない、わたしは自分の耳を疑う。
しかし、その時わたしは気づいてしまった。
川西圭吾は、歌っていない。ピアノの鍵盤の音の波が、歌うように響いているだけなのか?
それも違う。
開いた窓から吹き込んでくる桜の花びらたちの歌が、直接わたしの思考に入って
いるのだ。
ありえない。目眩がする。
わたしは金縛りにあったように、ピアノの音源に縛り付けられた。
川西圭吾は、楽しそうだった。
時折、宙を見て、音符を眺めていた。彼の瞳には音符と雪の華と、吹き込んでくる桜の花びらが、螺旋を描いて映っているようだ。
弾き終わると、彼は軽く腕を上げて、最後のキーを叩く。
わたしがいるのにも気づいていないようだ。
わたしは暫く金縛りが解けずに、じっと彼を見つめていた。
何故だかわからないけれども涙が溢れて来た。
その時、川西圭吾は、初めてわたしに気づいた。
少し、気まずそうな顔をして、彼は軽くわたしに微笑んだ。
その瞬間、金縛りが解けてわたしは手が痛くなるほど
拍手をした。
川西圭吾は嬉しそうに白い歯を見せて声もなく笑う。
「ピアノ、上手なんだね」
「ありがとう」
初めてわたしは彼の声を聞いた。高すぎず、低すぎない、聞きやすい声の持ち主だった。合唱部なら、テナーのパートリーダーになれそうな声。
「忘れ物、しちゃって」
わたしは照れ隠しにそう言った。
「これ、でしょ?」
川西圭吾は、わたしの名前の入った楽譜のファイルを差し出した。
「ピアノの上にあった」
はい、と差し出されたファイルをわたしは両手で受け取った。
「ありがとう」
「どういたしまして」
川西圭吾は微笑んだ。
「音楽室の鍵は僕が預かるよ。もう少しだけここでピアノを弾いていたいから」
「ありがとう。よろしくね」
わたしは、彼に鍵を預けて
足速に音楽室を去った。
音楽室の窓から、桜の花びらのいい匂いが溢れていた。
コロナ休みが終わった5月半ば、川西圭吾の姿はなかった。窓際の最後尾の席は空席になっている。
川西圭吾は、自殺したのだ。理由は誰もわからない。
彼の自殺が分かったのは、コロナ休み明け、登校してからで、登校直後突然全校集会が開かれ、校長が訓戒を垂れた。
「自殺は人間として最もしてはいけない行為なのです」
だけど、先生は何故自殺をしてはいけないのか?は教えてくれなかった。
わたしは、川西圭吾が死んだ理由がなんとなくわかる。
彼はただ、咲き誇る桜の花びらや、裸の樹々に着雪する雪の花びらのように、空を舞ってみたかっただけなのだろうと思う。
彼は、自分の住む高層マンションの11階から飛び降りて死んだ。
きっと、11階から眺める空があまりにも青くて綺麗だから、綺麗な空に融けてみたかったのだろう。
わたしは時々、教室の後ろを振り返る。
長い睫毛を伏せめ勝ちにして、ぼんやりと空を眺めていた川西圭吾。
音楽室のピアノを独り占めして楽しそうに音に酔っていた川西圭吾。
わたしには彼が彼だけの世界で
楽しげにピアノを独り占めして弾いている姿が
懐かしく、甘い画となって
今も目の前に映し出すことができるのだ。