安善運転


道とは通るところ
道路には道路交通法という法律がありますね。
それぞれの国には
誰もが守らなければならない交通規則があります。必要な規則を学び免許を持つものでなければ運転は許されません。
もしも一国に、道路交通法が2つも、3つもあれば事故やトラブルがおきるのは当然のこと。

さて、この体が魂を乗せる乗り物だとしたら、

心      運転手
身体     車
未知     道路
運を転じる  運転
操り糸に従う 操縦
理を定規   信号
信仰     標識
目的案内   ナビ
愛      燃料
最善     安全運転

といったところでしょうか。
実は、
道路交通法が一つであるように
精神軌道も一つでなければ
精神人間世界は治まらないのです。

人口何十億人が、自分の信じるルールを思想とし、それに忠実に基づいて生活したとしたらどうなるでしょう。
どの信号を信じていいのかわかりません。思想もバラバラです


標識は信仰の数だけありますが
あくまでも標識はゴールではありません。
この世界には、人間を作り出した神様の信号、つまり理の号令があり、このルールに基づくことにより
安心を約束される、唯一無二の
天理の法則があります。
信号無視すれば混乱は避けられません。

治安を守るためにどんなに人間が六法を改正し、新法を作っても、進化とともに網目をくぐり抜け、イタチごっこで争いは続きます。

本当に治安を守りたいならば
精神軌道をまず知らなければなりません。
それに照らし合わせて
自分の間違いを見つけて改めていくと、衝突を防ぎ、人との交わりを安心して通れると思うのです。

しかし、信号を守ってもすぐには凸凹道から、平穏な道に至りません、そこは道ですから、途中で諦めず、一旦停まって、天理の軌道をよく点検して、あとは最善を信じて進んでいく事です。

神様は人間の親ですから、どんな時も導き見守って、何代かかっても到着を待って下さっています。

神様の定められた、この世界の精神軌道のルールを学び、守り、
早く本物の免許証を頂きたいものです。

「免許証ですか?もう持ってい
ますが、、、。」と聞こえてきそうですが、人に対して自分に対して、

「私もルールを知らなかった
時もあったなぁ、今回のことで
よく学べたなぁ。
気づかせてくれてありがとう。

これに免じて許しましょう。」

という反省と感謝と慈悲心を
身に着ける為の
工夫と努力に対して、神様より、授けて頂ける許可証が精神世界の免許証かもしれません。

ありがとうございます。