声は嘘をつかない?
たとえ曇り空であっても
カーテンを開けると
その先に見えるのが
海だということは
なんて素敵なことだろう。
昨日から新しいホテルへと
引っ越して来た。
海が広く目の前に見えて
散歩ができる
外に温水プールがある
静かである
そんな条件に惹かれて
ここにやって来た。
正直に言うと客室の内装は
宿泊価格に比べて
あまりにも安っぽいことに
驚き
一瞬その裏側にあるであろう
メンタリティに違和感を抱いたが
落ち着いた照明の中に
しばしいることで
それでもこれまで泊まった
どこよりも静かなことにも
気づき
ありがたく感じている。
一晩明けた今、
なおさらそう思う。
それに居間にあるのはソファでなく
ダイニングテーブルと椅子。
私のようにすぐに散らかす
人間には
大きなダイニングテーブルに座って
いろんなものを広げながら
こうしてMacBook Airを開けて
仕事ができると言うのは
とても便利なことなので
それもいい。
今日はとても風が強く
頑丈なはずの窓の隙間が
ずっとヒューヒューと
鳴っている。
確かに二重に閉まっているし
鍵も忘れていないと言うのに。
私はこの風が窓をこする音を
聴きながら
ひとしきりclubhouseで
繰り広げられているトピックや
参加している人たちの
名前をなぞり終わると
どこにも入室せずに
ここFacebookへと
戻って来た。
ClubHouseと言う
新しいオモチャを手に入れて
2週間くらい経っただろうか?
夢中で遊んでいるようで実は
私の心にも身体にも
たくさんの変化が現れ
まだそれを統合しきれていない
気持ちとともに
これを書いている。
「身体は嘘をつかない」
とよく言われることだが
私は以前から
そんなことないと思っている派
である。
もしも身体が嘘をつかないとしたら
あなたはご飯を食べすぎたり
お酒を飲みすぎたりもしない
だろうし、
疲れたらすぐに
それに気づいて
休まずにはおれないことだろう。
体が嘘をつかないのは
赤ちゃんの時くらいではないだろうか?
大人である私たちが
本当に正直な身体で
あるためには
正直な身体に
戻っていくためには
意識的に練習して
身に付けることが
必要ではないかと思う。
心地いい、心地悪い
から始まる
身体感覚という
身体の知恵に耳を傾け
それを行動にうつす、
と言う単純だが
深いことを反復して初めて
そうなれるのでは
ないかと思う。
しかし身体の感覚に
敏感になったからと言って
本当に身体が嘘をついていない
とも限らない。
脳が誤作動を起こし
危険でないのに危険だとか
少しの不快に大きく
反応することもあるから。
さて身体は嘘をつかない説
に加えて最近よく聞くのは
「声は嘘をつかない」
という説だ。
音声だけのアプリの中で
よく聞かれるようになった言葉だ。
私はこの言葉にも違和感を
感じている。
SNSの中で発せられるのは
声だけではなく言葉も同時にだ。
言葉とその向こうにあるエネルギーを
声というものに変換して
発するわけだが
それが上手な人も
そうでない人もいる。
という見方もできるし、
人前、ということを意識した途端に
本来の自分の音を出せなくなる人たち
だっているはずだ。
「声は嘘つかない」
と言うとなんだかわかった風で
本質的な発言に聞こえるが
その向こうには
ジャッジメントもあるような
気がする。
(言う人によっては
ない場合もあると思うが)
人というのは多面的な
存在だと私は思う。
いろんな、いろんな、いろんな
ところがあるということだ。
それは私自身を
見ていてもわかるし
他の人たちを見ていても
そう思うのだ。
人を簡単にいい人、
悪い人、
誠実でない人
そうでない人
やさしい人
冷たい人
など2つに分けることなんて
絶対にできないし
声や話を聞いただけで
誰かを判断するなんていうことも
できないと
私は思うのだ。
と言うか、
私はそうしたくない。
いい声、好感の持てる声
セクシーに感じる声
自分にとっては耳障りな声
何かが胸に詰まっているような声
嘘くさく感じる声
色々だ。
もちろんもちろん
声で判断できることは
たくさんあるし
私も無意識のうちにも
とっさに声で人を
判断していることだろう。
それでも
「声は嘘つかない」
などと言って
声を聞いただけで
その人の人柄や優劣を
勝手に決めるようなことは
したくないと
私は思うのだ。
声も言葉も話し方も
学んで練習すれば
ある程度上手くなるし
身につくものだと思う。
でもそうすることで
隠され言ってしまうものも
あるんだよ。
本当のことでなくても
感情を込めたり
することだって
できると思うし。
じゃあだからと言って
会ってみなければ
わからない、
ってそう言うことでも
ないと思う。
人のことなんて
簡単にジャッジできない、
したくない、
と言うそれだけだ。
声や言葉を聞けば
面倒だな、と思ったり
薄っぺらいとか
好みでないと思ったり
することもある。
でもそんな湧いては
消える考えは手放して
その人の絶対的な善を
見ていたい、聞いていたい、
と思う。
それが私の心の奥の
本当のことであり
魂の望みだが
ある瞬間には
自分に起きる感情的反応こそが
目の前の真実だと
信じてしまうこともある。
まったく私って!