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《時間についてvol.2》ともにある時間と、ともにあった記憶。

新宿発松本行、8時ちょうどのあずさ5号。朝からちょっとした緊張感、新宿に向かうまでの総武線が人身事故の影響で乗り換え時間がほとんどなく、券売機には人が並んでいた。

乗車3分前に自分の番がきて、急げ急げと券売機の画面をタップする。気分はイーサン・ハント。大丈夫、ミスしたって誰も死なないよ。

なんとか乗車して席で一息つくと、haruka nakamuraの「スティル・ライフ」を聴く。中央線を西に、西に。国分寺を過ぎたあたりからぐっと民家が増え、自然が多くなってゆく。

「スティル・ライフ」とは静物画のこと。すっと思い浮かぶイメージは、テーブルの上には白いテーブルクロス、カゴの中に葡萄や林檎が入っている。花を飾っていたりもする。

僕はモランディや長谷川りん二郎の絵画が好きで、折に触れ図録を開く。それらの絵画には独特の時間の流れを感じる。

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ジョルジョ・モランディ 静物 1955

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長谷川りん二郎 箱 1965

haruka nakamuraの「スティル・ライフ」を聴いていると、これらの絵画を眺めているときのように、心のうちが静かになり、ちょっと泣き出しそうになるような感覚がある。
やわらかいミュートピアノの音色の奥に、鍵盤が押されて戻る、ハタハタカタカタという音が聴こえる。

なぜそんな気持ちになるのか考えてみる。

すべての作品、サービスやプロダクトは、それと「ともにある時間」を提供している、と考えることができる。
つまり、ミネラルウォーターのペットボトルは、「水そのもの」ではなく「水をゴクゴクと飲む時間」をもたらす。

いまの僕で言うと、朝ごはんを食べ損ねて買った車内販売の菓子パンと缶コーヒーは《限定された状況下で許容範囲の朝ごはんを食べる時間》をもたらした。haruka nakamuraの「スティル・ライフ」は《朝ごはんを食べながら、この感情について考え、文章を書きたいと思わせ、実際に書いている時間》をもたらしている。

すべての作品、サービスやプロダクトは、それと「ともにある時間」を提供している。でも、それだけだろうか。

僕たちは「ともにある時間」を媒介にして、それ自体を体験していなくても「ともにある時間」を追体験することができる。
そうだ、「ともにある時間」はいつか「ともにあった記憶」になる。

水を飲む時間は10秒だったとしても、それが、高校時代の部活で大逆転した試合後にうれしくてゴクゴクと飲んだ水だったとしたら、10年経ってもその水のことは覚えているかもしれない。

体験した時間はやがて記憶になり戻ってくる。体験している時間(ゴクゴクゴク)をベースに、それを記憶している時間(「あの水はうまかった」)に変容する。

そして、強烈な体験は記憶に残りやすい。だからと言って、「ようし、オレは一生に一度のことしかしないぜ」とは考えない。

生活のかたわらにある些細な出来事は、そのままでは些細な出来事のまま。部屋の掃除、洗濯物をたたむ、料理をしてお皿を洗う。毎日、まいにち。

でも、読んでいる本の一節に、聴いている音楽のメロディーに、車窓に広がる紅葉に、ふと触発され「ともにある時間」で終わるはずだった時間が、「ともにあった記憶」に変わることがある。

僕はその瞬間が好きだ。そんな時間と記憶をより多く体感したいし、自分の仕事がいつか誰かの「時間」と「記憶」になればいいなと思う。

うーん、このあたり、まだうまく言葉にできない。誰に対して、どんな「ともにある時間」を作っていくのか、そしてそれが「ともにあった記憶」になるにはどうすればよいのか、もっと考えてみたい。

われわれが思考と呼ぶものは、人間がさまざまな表層や映像を組み合わせながら、自分の行為が現実の事物の中でどのような結果を生むかを、見抜いたり予測したりしようとする、その努力のことである。思考は、すべての行動の素描だ。 アンドレ・モーロワ著 私の生活技術 P3

うーん、思考がまだ追いつかない。

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