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《時間についてvol.1》「時間がない」は、本当か。

新大阪発東京行き。土曜日の朝6時台ののぞみ84号には人はまだまばらだ。空は青く、少し雲が出ている。音楽はホセ・ゴンザレスの「Vestiges&Claws」を聴く。この時間帯に最適な音楽だ。ボーカルはあくまでさりげなく、演奏に余分なところがない。

昨日は大阪で仕事があった。ある企業の研修で講師として登壇した。僕の他に2名の参加があり、僕からすると仰ぎ見るような大先輩だったので、とても貴重な機会になった。

あまり具体的には書けないが、同じテーマを扱っているように見えても、人それぞれアプローチがやはり異なることが面白い。山頂を目指すルートがいくつもあるように、ある人はもう7合目までたどり着いたところから話すし、ある人はチームを組んで登山することの大切さを説く。

自分で話していて気づいたのは、僕は、「そもそも僕が(僕たちが)登ろうとしている山はなんなんでしょうね」というところから話をはじめたがっている、ということだった。他の二人は、「この山」と決めて話をはじめているのに対し、僕は、「この山でいいんだろうか?」からはじめている。

研修自体はなんとか終わり、その後の懇親会では、講師の一名から「染谷さんは時間についてたくさん話されていましたね」と水を向けてもらった。「そうなんです、何か考えるにしても、ベースは時間だと思うんです」と嬉々として話そうとしたところでお開きの合図がかかり、その話は尻切れてしまった。

前回の《時間について》の記事から1ヶ月半が経った。その間、時間についてのリサーチはまったく進んでいない。本を読もうと思っても、何か書こうと思っても、日々のやることに追われ、時間を作れなかった。

本を読もうと思っても、何か書こうと思っても、日々のやることに追われ、時間を作れなかった。

こう書いてうんざりする。時間なんて、いくらでも見つけられたはずだ。Twitterで流れてくるよく知らない人の日常を見る時間や、ネットフリックスでなんとなくドキュメンタリーを見る時間はあったのだ。

そうなると、足りなかったのは時間ではなく、それに向かおうとする勇気だ。(大げさだけど、勇気としか言いようがない)

時間について自分なりの仮説を立てること、時間と空間がもたらす体験価値を整理すること、これをしっかりやらなければいけない。なぜなら、時間はやはり誰にも付属しているものだから。(生きているにしろ、死んでいるにしろ)

一部の人だけが持っている特定の事象を気持ちよくひけらかすことと、誰でも知っていることを別の形で提示すること。それは、村上春樹の「ダンス・ダンス・ダンス」のような特別なバランスが必要だ。

時間についてのリサーチはまだ下準備にすら入っていない。おいおい、このままだと20年くらいすぐ経ってしまうぞ。まったく進んでないことを認識するために、この文章を残しておく。

とにかく、新幹線に乗っている時が一番文章が書きやすい。なぜだろうか。乗車時間という締め切りがあり、その時間の中では完全に一人だからだろうか。

様々なしがらみを全て断ち切るような速度で移動する、のぞみ84号にいまは感謝する。

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