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勉強は世界一安全なスポーツ

「勉強したくなーい」

そう思ってふらふらリビングに行くと母親がフィギュアスケートを観ていることがよくあった。人間業とは思えない3回転・4回転のジャンプや、超高速スピン。音楽に合わせたリズミカルなステップに、衣装の美しさを引き立てるなめらかな滑り。スケートの知識がある人でもない人でも、その技術力と表現力にうっとりというか、唖然とする。

そして私は、喝を入れられたような気になる。

選手たちは、何百人というお客さんが360度自分を囲って、固唾を呑んで自分の一挙一動を見守っているなか演技をしている。ジャンプがうまくいけば喝采が起き、転んでしまえば「あぁ」という空気が会場全体を包む。演技のあいだ一秒一秒、ナレーターが観察していて「あ~スピードが足りませんでしたね」などとコメントを入れる(選手には聞こえていないが)。お世話になったコーチと、ワシのように鋭い目のジャッジ達も見守っている。そして、本番でも練習でも怪我をすることがある。特にスケートは大怪我になることもある。その痛みに耐えながら華麗に舞わなければいけない時がある。

「そんなのに比べたら」と私は思う。

「勉強は、なんて楽なんだ!」

練習で大怪我をすることもない。宮原知子選手(はじめ多くの選手)は疲労骨折をしたけれども、勉強のしすぎで病気になることは、基本的にない。せいぜい指にペンダコが出来るくらいで(私は出来ない)、超安全!

しかも本番、つまりテスト中に観客やナレーターが横にいて「計算ミスってるね!」とか「いや~今のは取れたでしょ!」とか口を挟んでくることもない(それってかなり鬱陶しい)。

良い結果が出せなくて泣いているときに、マスコミの人がマイクを持って「今のお気持ちはいかがですか?!」と詰め寄ってくることもない。赤点のテストを破って捨ててなかったことにしてしまうことも出来る(良い子は真似しないこと)。

逆に、スケート(というかスポーツ全般)が勉強と似ているところもある。それは色んなスキルの掛け合わせが求められる、ということだ。例えばスケートは、大まかにいうと、技術力と表現力が問われる。いくらジャンプが得意でも、芸術面でうまく表情や体を使えないと、合計点は伸びていかない。逆ももちろん然り。それは勉強でも同じで、例えば数学なら正確に計算する力と、応用問題を柔軟に解く力両方が必要だし、総合模試なら文系も理系も頑張らなければ志望校判定は振るわない。

学校で、テストの成績で順位がつけられたりすると、それで自分の人間としての価値まで測られているような気がして気持ち悪い。センター試験で一点、二点高くとるためにやみくもに暗記をしていると「自分何してんだろ」と思えてくる。そして「こんな勉強本質的じゃない!」と思って放棄してしまう。

でもそうやって成績が振るわないままだと、やっぱり自己肯定感が下がったり、やらなきゃいけないことから逃げている後ろめたさがあったり、心の底ではもっと勉強が出来るようになりたいと思っていたりする。

そんなときは「勉強はスポーツだ、全員必須参加のレースだ」と割り切ってしまえばいいんじゃないか。「点数取りに行くゲームだ」と思ってもいいかもしれない。もちろん頑張っても振るわないこともある、でもそれで自分の価値が否定されたりはしない。スポーツ選手だって、大会で失敗したからと言って全人格が否定されるわけじゃない(心ないバッシングを受けたりはするかもしれないけど)。

これは高校生のころ私が考えていたことで、宿泊行事の時に体育会系の友達に話したら、目からうろこが落ちたような顔をして「うわめっちゃ勉強やる気出てきた!」と言っていた。

もちろん、本当の学問や研究は、点取りゲームじゃない。私も、ただ正解を頭に叩き込みながらセンター対策するのがすごく嫌で、大学に入ったら、答えの無いような問題をじっくり考える学び方をするんだ、と思っていた。でも日本の教育システムの中で、「勉」めて「強」いることを、なるべくリラックスしてやっていくためには、そうやって割り切るのもアリだよ、という持論でした。

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