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「smart Al'eck」への道(後編)

中編より続く。


さて作品集は完成したが、じゃあ、それでどうするのか?どうしたいのか?

考えた結果、「やりたいこと(デザイン)って、広告でも雑誌でもなくレコードジャケットじゃん」と今更ながら、というか初めて意識的に気づいた。
今まで漠然と「レコードジャケットってカッコいいな」とか思っていたのに、自分の生業としてそれを選んでいなかったのは、自分にそれができるだけの自信もなかったし、そもそも挑戦してダメだった時の挫折が怖かったんだろうな。
でも、この作品集を完成させたことで少なからず自信も持てたし、どうせ目指すなら本当に行きたい場所を、見たい景色を見にいくべきだと決心がついた。

「それならば!」と、自分の中での頂点の人に見てもらいたい、頂点の人の下で働きたいと、当時日本の(CD)ジャケットデザインの頂点だとボクが畏敬の念で見つめていたコンテムポラリー・プロダクションの信藤三雄さんに狙いを定めた。

1993年当時、コンテムポラリー・プロダクション(以下CTPP)は、名実共に日本のジャケットデザイン界のトップだったと思う。
すでにピチカート・ファイブを始めとして、フリッパーズ・ギター、オリジナル・ラブなど「渋谷系」のいわゆるマイナー路線からユーミン、サザン、SMAPなどの超メジャー級まで、とにかく錚々たるメンツのジャケットデザインを手がける「日本のヒプノシス」だった。
当然ながら、ボクと同じような「明日の若手デザイナー」を目指す有象無象の連中が連日、信藤さんに面会を求めて膨大な問い合わせをしていて、その多くが断られていたようだった。
という内情を知ることができたのも、ボクの同級生が二人もCTPPに勤めていたからだった。
一人は桑沢時代の親友(♂)で、一人は同じく桑沢時代のバンドメンバー(♀)。

実はその繋がりで1992年に発売されたMr.Childrenのデビューミニアルバム「EVERYTHING」のジャケットデザインに「アメコミっぽいイラストが必要だ」ということで、まだエディトリアルデザイン事務所に所属していたボクがお手伝い(ちゃんとギャラも頂いたイラスト仕事)として描きに行ったことがあった。
そういう意味では、ボクのCDジャケット仕事のデビュー作はミスチルだ。ちゃんとジャケットのスタッフクレジットにも「Illustration : Hikaru Kawahara」と明記されている。機会があったら確認してみて欲しい。

その同級生からの推薦に大いに助けられて、運よく信藤さんにお目通しが叶う(まさにこういう表現でしか書けないくらい信藤さんとの面会はハードルが高かったはず)機会に恵まれた。

面会当日、信藤さんのいるオフィスでボクを出迎えてくれたのは、その同級生(♀)で、ボクの余りの緊張(というか興奮)ぶりに「こんなヒカルさん見た事ない!」と冷やかし半分に大声で笑ってボクの緊張をほぐしてくれた。(と、今となれば感謝しかないんだが、当時は「お前、なに笑ってんだよ!」とバンド内の関係性のまま、頬をツネっていた、、、)

そして、ついに信藤さんとご対面。
ミスチルのイラストを描いた時は信藤さんと直接のやりとりはなく、部下のデザイナーである同級生(♀)から「こういうの描いて」などの指示を受けただけだった。

あ!

今、書きながら思い出したんだが、ミスチルのイラストの他にピチカート・ファイブのライブ盤「インスタント・リプレイ」に封入されたマーチャンダイズのカタログでも同級生(♂)からイラストを頼まれ、当時CTPPでは誰も使えなかったMacを使ったイラストを描いたことがあった、、、、確か、そのイラスト打ち合わせの場に呼ばれて信藤さんとは顔を合わせているはずだが、なにせ下っ端のイラスト描き(すでに前事務所を解雇されて無職のボクだったはず)が何か発言することもなく、ただ信藤さんとデザイナー(同級生(♂))の打ち合わせに同席してるだけでしかなかった記憶が、、、もしかしたら小西(康陽)さんも居たのかもしれない、、、が、緊張のあまり覚えていないのが現実。

ともあれ、信藤さんとのサシの面会は初めて。
緊張もするし、少しでも自分をよく見せようと背伸びしていただろうし、しっちゃかめっちゃかな精神状態だっただろう。

しかし今の自分は、とにかく、この作品集で判断してもらうしか道はない。
現段階の自分を評価してもらうために作ったというよりは、作らずにはいられなかった自分の内臓みたいなコレを見てください!そしてボクを認めてください!そしてそして、願わくばアナタの下で働かせください!と、心の中で「!!!」ばかりのアピールをしていた。

そんな前のめりも甚だしい、鼻息荒い若造の作品を1ページ1ページちゃんと見てくれている信藤さん。


「う〜〜〜ん」


その一言が出るまで、いったい何分が経っていたのか全く覚えていない。


「どうでしょうか?」

この「どうでしょうか?」の問いを投げることがどれだけの恐怖か、、、



そもそも、この面会は「採用面接」ではない、ということを伝えておきたい。
その時のCTPPは正式には中途採用を行なっておらず、当然ながらボクの面会もそれを承知の上で「とにかく作品を見てください」という前提での面会だった。
だから、先の「どうでしょうか?」には「雇っていただけますか?」の意味合いは当然含まれていない。
含まれていないのは百も承知だが「もしかしたら?」の希望(というか欲望?野望?)はガンガン含まれている。
含まれている、というかおそらく身体中から溢れていただろうな、と推測できる。

そんな空気での「どうでしょうか?」の問いを投げかけることの恐怖よ、、、


「ダメだね」



そう言われたら自分がどうなるのか想像もつかないし、想像したくもない。

それでも、つい出てしまった「どうでしょうか?」の一言。



「う〜〜〜ん」

「はい」

「えっと、河原くんだっけ?」

「はい」

「キミはね、ココで働かなくていいよ」








終了。
自分のデザイナーとしての希望は、今をもって全てここで終了した。

3ヶ月、寝食を惜しんで、というよりも忘れて没頭したコラージュ、ドローイング制作。
どこかへのゴールを目指すというよりも、本当の自分をスタートさせるために向き合った創作の日々。
その全てが報われることなく、今ここで終了のゴングを聞かされたのだった、、、、

ある意味、当然である。
今回「採用面接」のために信藤さんが会ってくれたわけではないのだから、「ココで働かなくていいよ」の答えは当然である。
「雇わない」のであれば、それ以外にどんな言葉があるというのか?

その時の自分がどんな顔していたのかは想像がつく。
アホ丸出しの、呆けた顔をしていたんだろう。
しかし、そんな呆けた顔をした無職の青年のために温情だけでCTPPのメンツに加える、などという愚策を施さないのも、また信藤さんの眼力でもあるだ。
「良い」と思った人材は経歴や実績がなくても採用し、自分の配下に置いて、そのチカラを発揮させる。それがアート・ディレクターとしての実力であり、眼力だからだ。
実際にCTPPで働いている同級生二人は実績も経歴もなかったが、その才能を買われて採用された。
そしてボクは「ココで働かなくてもいいよ」と告げられた。
それが現実。



「キミはね、ココで働かなくていいよ。自分一人でやってみればいいんじゃないかな」




「雇わない」のであれば、それ以外にどんな言葉があるというのか?

あった。


「自分一人でやってみればいいんじゃないかな」


この言葉があった。




「キミはココで働かなくても、もう自分の世界がしっかりあるから一人でやっていけばいいと思う」







始まった。
自分のデザイナーとしての希望は、今をもって全てここで始まった。



その後、信藤さんは多くを語らず「じゃあ、そういうことで」みたいな、後に信藤さんと親交を持たせてもらうようになってからは、その照れ屋さんな感じが「信藤さんっぽいな」と思うことができるのだが、その時のボクは「え?それだけですか?どう一人で始めるんですか?」とか「それで何かアドバイスは?」とかも口に出せないまま面会は終了。


しかし、この一言で全てが始まった。

ついに「smart Al’eck」への道に立つことになったのだった。



今回、最終回のつもりでいたが書ききれず、、、、



次回こそ、本当に最終回となる「番外編」にしよう。

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SOMETHING WRONG MAGAZINE (The Seventh Ghost Records) / TLGF
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