「smart Aleck」への道(前編)
先日、インスタに「smart Al'eck」「more smart Al'eck」という2枚のコンピレーションCDのジャケットをポストした。それを機に「そうだ、ちょっと書いてみようかな」と思ってここに記すことにしました。
どれくらい覚えているか?どれくらいの文章量になるのか?今の段階では分からないですが、お付き合いくださいませ。
今から遡ること28年前の1993年夏、25歳を目前に迎えたボクは無職でした。
前年1992年の暮れ、勤めていた某有名エディトリアルデザイン事務所を自分の怠慢な勤務態度が原因で解雇され、そのまま年越し。僅かな失業手当は三ヶ月で終わり、その後はレコードコレクションを売っては食い繋ぐというクズ人間の生活をしていました。
なぜ、日銭を稼ぐバイトをしなかったのか?理由は簡単です。
「デザイン以外の労働でお金を稼ぐ」ということにめちゃくちゃ抵抗があったからです。なんてカッコつけた言い方してるけど、それは笑っちゃうくらい小さな小さなプライド。
でも当時の自分にとってそのプライドは一日一食になってでも死守したい大切なモノでした。
今食べられない自分よりも、今までやってきたことへの自負や、これから向かうべき未来の自分へのプライドとでも言いますか、とにかく「デザインでメシを食う」と決めてプロの道に入った自分への最低限の掟として課したルールでした。
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クビになってからの三ヶ月は、本当に全く何もしない日々。
失業保険を受給するための職安通い以外は、ひたすら部屋に籠ってテレビとレコードと読書。お腹空いたら近所のスーパーマーケット(今みたいに100均の食料品が充実してなかった)で廃棄寸前の安売り食材やインスタント食品を買い込んでくる。
だいたい夜の12時頃に一日一食のゴハンを食べ、それからテレビの深夜番組観たり、レコード聴いたり、本(カッコつけた海外文学とお色気に満ちた日本のエロ本)を読んだりして「明るくなってきたなぁ〜」と布団に入るのが朝7〜8時。目が覚めるのが夕方か夜。それだけが繰り返される毎日を三ヶ月続けた。
時々、友達が生死の確認も兼ねて電話(もちろん固定電話)してきたり、深夜に突然訪れたり、、、そんなことを三ヶ月も続けてるとさすがに「何もしないこと」にも飽きてくる。
「仕事しなきゃ」という焦りも当然あったと思う(親にも無職状態というのは伝えてないから、もちろんサポートもない)んだが、どちらかと言えば「飽きてきた」という感情のが大きかった気がする。
この場合、「仕事しなきゃ」=「デザインしなきゃ」なんだけども、ボクはデザインで何がしたいのか、、、、?
専門学校卒業後、最初に働いたデザイン事務所は、いわゆる大手広告代理店の下請け会社で「クライアントへのプレゼンに『捨て案』として使うためのデザイン、及び自分たちで作るのが面倒臭い案を作らせるパシリ的存在」として受注している仕事がメインのような会社だった。そういう会社が良い悪いではなく、そういうシステム(というか業界の通例)が存在するという現実に驚き、電通や博報堂の滅茶苦茶な要求(スケジュール、内容全てが滅茶苦茶自分勝手)に応えている上司や先輩の姿に幻滅し、そしてそこに組み込まれていく自分は心身ともに疲れ急性胃炎で緊急入院することになり退職した。グラフィックデザイナーという職業を目指すきっかけになった「広告デザイン」という選択肢はここで簡単に消えた(ボクの「代理店ファック!」は、この時に実際に体験したからこそ生まれた感情ですね)。
次は「やりたいこと(デザイン)ができる会社がいいな」と、当時好きだった雑誌のデザインをしている事務所に応募したら運良く合格。そのまま、やりたいデザインをやれる環境に、なんて虫の良い話ではなく、全然興味ないコンサバ女性ファッション雑誌のチームに配属。
自分が好きなカッコいい雑誌のデザインチームの隣で興味のない記事や写真を決められたフォーマットにどう収めるか?ということだけをひたすらこなしていく日々。そりゃ、つまらないし、やる気も出ない。だって、当時のボクはまだ23歳。社会も仕事も色んな常識やルールも知らない若造。夢や希望だけは人一倍デカく語るだけの青二才ですから不満だらけの毎日です。
遅刻、お喋り、居眠り、早退を繰り返し、年末仕事納めの一週間前に社長に呼び出され「河原くん、今年いっぱいで辞めてもらうから」と、当然の解雇通告。
「はい。ですよね」としか答えられない自分は、今思えば「下の下の下の社会人」というか社会人になる資格もない、ただのお喋りクソ野郎。
「昔から雑誌とか好きだし」なんて軽い気持ちで入ったエディトリアルデザインという分野も自分には才能がないと気づいた時でもありました。未だにエディトリアルデザインの奥深さには腰が引けてしまうし、実際に自分には才能がないと痛感してます。
でも不思議なことに、全然やる気が芽生えなかったこの「コンサバ女性ファッション雑誌」の怖〜い女性編集者さんの一人に何故か気に入られていたみたいで、当時、校了前の出張校正(たいてい夜中の2〜3時まで作業)では、出版社の広い会議室の一角で作業しているボクのところに来ては「これ、こんなに文字がはみ出してるの、一体どういうことよ!?」って椅子の脚をガツ〜〜〜ン!って蹴って励ましてくれてました。眠気なんて一気に覚めますから、有り難かったです。今流行りの「パワハラ」ってやつを20年以上前から先取りしていたんですから、さすがファッション雑誌の編集者さんです。
でも、本当に気に入られていたのかも?と思ったのは、ボクが退職すると分かったら、92年当時日本に上陸したばかりのA.P.C.のノベルティーを「あなた、こういうの好きでしょ?」とニコリともせずに手渡してくれたからです。
ひとつはジャン・トゥイトゥー直筆サインが入ったメモ帳。これです。
そして、もうひとつがボクのその後の人生を大きく動かすきっかけになった上製本タイプの分厚いノートです。
(微かにA.P.C.と読める剥がれた印刷が、このノートの歴史を表してます)
もし、このノートがなかったら、今のボクがどこで何をしているのか、、、、
人生のきっかけって、どこにあるのか?何がなるのか?ホントに分からないものです。
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小さなプライドと廃棄寸前の食料品を糧にしていた1993年の春頃から三ヶ月間、ボクは一冊のノートにだけ向き合う日々を始めます。
その話は次回「中編」でお話しします。
それでは、また。