「smart Al'eck」への道(番外編)
後編から続く。
信藤さんの一言によって期せずして「smart Al’eck」への道に立つことになったが、一体どうやって「一人でやればいいのか」皆目見当も付かないままだった。
今のようにインターネットで独立した人の経緯や方法が検索できる時代でもないし、周りでそういった経験や知識を持っている友達も居ない。
「そうか!一人でやればいいのか!」なんて、変に期待だけが手元に転がり込んできたが、はてさて、どうしよう。
信藤さんとの面会からどれくらい時間が経ったのか記憶にないんだが、ある日、CTPPで働いていた件の同級生(♀)から電話があった。
「ヒカルさん、まだ仕事決まってない?」
「うん。まだプー(当時、無職の人間を「プー太郎」と呼んでいた)だよ」
「あのね、私、実はコンテム(業界の人はCTPPのことを「コンテム」と呼んだ)を辞めたの」
「え!?は!?どゆこと?」
「信藤さんに『うるさい。もう辞めなさい』って言われてクビになったの(笑)」
「笑ってる場合じゃないだろ、、、、てか、お前もボクと似たような理由でクビになってんのかよ(笑)」
「でね、私、もうデザイナーは辞めたいんだけど、仕事をお願いされちゃってさぁ」
「ん?どゆこと?」
「んとね、私に指名でデザインして欲しいっていう依頼がコンテムにあったみたいで、で、私に直接連絡が来たの。でも、私一人じゃ絶対にイヤなんだよね、デザインの仕事するの。もう辞めたいのに、、、だからヒカルさんも『やる』って言うなら、引き受けようかなぁって思って電話した」
「やるやる!絶対にやる!」
こんな簡単な会話でデザイナー人生の再スタート、いや、音楽にまつわるデザインに関してはまっさらのど素人であるグラフィックデザイナーの誕生となった。
お互いに「おしゃべりが原因」で会社をクビになった二人が始めるデザイン・ユニット。
名前はこれしかない。
smart Al’eck corporation(スマート・アレック・コーポレーション)。
英和辞書で「smart aleck」と引くと、「名詞/〖口語〗うぬぼれの強い人;知ったかぶりをする人;生意気な人の意」とある。
高校時代、勉強のために英和辞書を開くことは、ほぼゼロだった。
でも、洋楽の歌詞の分からない単語、街や雑誌で見かけた知らない単語を調べたりとかするのは好きだった。
そんな時にパラパラとページをめくっては、気になる単語、響きがカッコイイ単語、綴りがステキな単語、そういうモノは「何かの時に使おう」と赤線を引くクセがあった。
それが今ここで役に立った。
こうして、ついに本当に「smart Al’eck」の道を歩んでいくことになった。
最初に作った名刺(というか歴代の名刺全て)は今でも大切に保管してある。
これだ。
話せもしないフランス語で名刺を作るなんて、まさに「知ったかぶりする人」の名前にピッタリだ。
当初、「smart Al’eck」の仕事は主に「再発盤」あるいは「編集盤」のジャケットデザイン。
海外の音源の権利を買い取ったレーベルがCDを再発したり、新たに編集を加えたコンピレーションアルバムとして発売するに当たり「新装ジャケット」としてリリースするためにデザインを依頼してくれる案件がほとんどだった。ほとんど、というか全部それだった。
音源の権利取得と同時に手に入る写真資料などほとんどないのが実情で、3〜40年前の画質の悪い写真(当時まだデジタル写真などないから、古くて劣化しまくった印画紙の写真)があれば、まだマシな方で、担当者さんから「これをコピーして使って」と渡された、1970年台の「ミュージック・マガジン」の特集ページから複写したり、何ひとつ資料がない中、タイポグラフィーだけで凌いだり、著作権のないイラスト集からコピー、あるいは著作権違反して古い洋雑誌からコラージしたり、、、
現代では完全にアウトなことを平気でやっていた。
そうやって作ったデザインたちの一部をお見せしたい。
この3枚は本当に最初期に作ったことは今でも覚えている。
資料画像が何もない。
ではタイポグラフィーでなんとかしましょう、という典型例。
ゾンビーズやモンキーズなど自分の好きだった洋楽、それなりに知名度の高いバンドの再発盤をデザインできる悦びに浸っていた。
バックカバーのデザインは、もう完全に「スタカン」していて、微笑ましいくらいだ。
1993年当時、フリッパーズやピチカートの影響で、いわゆる「フレンチポップ」や「ガールズポップ」などが再発ブームということもあり、こういうデザインがキャッチーで、自分も好きなテイストだったためとにかく楽しかった。
バックカバーの著作権違反はヤバすぎるレベル。
そんな中、今も自分の中で色褪せない、というか自分の根源的なデザインテイストだと言える作品も残していて、この時すでに「河原光的デザイン」の基本が全て詰まっている気がする。
写真の配置、タイポグラフィーのバランス、今見るともちろん未熟な箇所もなくはないが、しかし、ほぼ完成形と言っていいと思う。
24歳にしてこれが出来た自分を決して天才だとは思わないが、夜な夜な人知れずシコシコとコラージュに耽っていた自分あってこそだと思う。無駄なシコシコなど存在しないのだ、という証し。
さて、すこぶる順調に船出したスマート・アレックに見えるかもしれないが、実際にこなしていたジャケット仕事は月に1枚か2枚。それを二人で作る。当然ギャラも1枚分を二人で折半。経費を差し引いたら自分の手元に入るお金なんて高校生のお小遣いレベルだったが、それでもボクは「音楽」に携われる喜び、目指していた「ジャケットデザイン」をしているという心の充実に満足だった。
しかし、デザイン・ユニットとして運営していけるだけの収入、というか生活できるレベルの収入ではなかった。
では、どうやって運営、生活していけてたのか?
二人の作業場は間借り。
たまたま運良く、スマート・アレックを始めるタイミングと同時にCTPPから独立したデザイナーさんがカメラマン、マネージャー業務の人と共同で借りた広めの事務所があったため、「とりあえずココに机を置いていいよ。ファックスもコピーも使っていいから電話だけは自分たちで引きなよ」と、ダメな若者二人に手を差し伸べてくれたのだった。
そして、仕事に関しては自分のところに来た仕事を手伝わせることでボクら二人にギャラを払ってくれたり、打ち合わせに来た担当者さんたちに「この子たち、何も仕事ないから何か頼んであげてね」と営業してくれたり、はたまた「もう帰るけど一緒に乗ってく?」と深夜まで作業しているビンボーなボクら二人をタクシーで帰らせまいとクルマで送ってくれたり、しかも途中で「お腹すいたでしょ?」とラーメンをご馳走してくれたり、と本当に面倒を見てくれた。
そんな恩に甘えて、生来の「なんとなくヘラヘラフワフワやっていく」性格の二人で仕事を続けて3ヶ月ばかり過ぎた頃、その先輩デザイナーさんに「ちょっと、二人に話がある」と真面目な顔で言われて告げられたのが「あなたたち、もうココを出ていきなさい」だった。
ん??
何か気に障ることをしてしまったのか?
と、二人で顔を見合わせていると
「ホントにデザイナーとしてこの先もやって行きたいなら、ちゃんと二人でなんとかしていきなさい」
当然のことだ。
と、思えるのはもう少し先の話で、その時は「え!?お金ないのに、どうやって、、、?」という不安と「もうちょっと軌道に乗るまでは、、、」という、根っからの甘えた考えしかなかったのが本音だった。
「すぐに部屋を見つけてきて、決まったら出ていくこと。いいわね?出来るだけすぐによ」と念を押された。
さぁ、どうしましょう。
相方(スマート・アレック時代、同級生(♀)のことはずっとこう呼んでいた)は実家暮らしで家賃や食費の負担はほぼなかったが、ボクは自分の住んでるワンルームマンションの家賃、食費、光熱費、交通費などギリギリのところ、というか本当に微々たる蓄えを少しづつ切り崩しながらスマート・アレックをやっていたから、これ以上の出費は100%不可能だった。
すぐに二人で社内会議(と言っても、机の向こうには、その先輩デザイナーもカメラマンもマネージャーもいる状況)をして、「親に相談するか」という結論になった。
さて、今回は本当に最終回にするつもりだったが、これまた長くなってしまったので、ここまで。
「終わる終わる詐欺」と言われないように、次回こそ最終回にしますわ。
もう少しの辛抱なので、残りあと一回、お付き合いくださいな。