「smart Al'eckへの道」(完結編)
番外編から続く。
突然の通達には慣れているはずのボクと相方とはいえ、なんとか軌道に乗り始めたかな?と思った矢先の「退去通告」にはさすがに驚いた。
しかし、それはもちろん先輩からの愛あるメッセージ、若き二人の将来を思えばこその叱咤激励の一環であることも分かっている。
分かっている、、、、でも、ね。
いや、ホントに「でもね」と返したくなる気持ちだったが、もはや従う以外に道はナシ。
「行く(二人で独立)も地獄、戻る(二人して無職)も地獄」という感じだった。
「とにかくお互い、親に相談しよう」ということになった。
その夜、ボクは母親に電話で「実は半年以上前に勤務先を解雇された」という話、それで「友達と二人でデザインの仕事を始めて、なんとか食べている」という話、それから「で、相談なんだけど、、、」という順序で説明していった。
それぞれの内容ごとに母親は「はぁ!?」「ほぉ、、、」「でぇ?」という「驚き」「安堵」「懐疑(&ある程度、その先を想像)」の感情が受話器越しに伝わってきた。
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桑沢デザイン研究所というデザインの専門学校へは一浪して合格した。
当時、本当は(東京芸大に憧れていたが、桁違いに凄すぎて現実味はゼロだったから)多摩美か武蔵美に行きたかった。大学に通いたかった。
「東京の大学に入りたかったら東京で勉強しなよ」という、多摩美を卒業した従兄弟のアドバイスもあり、浪人生活から上京させてもらった。予備校への授業料はもちろん、贅沢はできないが生活はしていけるだけの生活費も仕送りして貰っていた。(月10万円近いアルバイト代は全てレコードと洋服に姿を変えた)
そんな「甘ったれ」な生活しながら、しかも「まぁ、一浪すれば合格すんだろ?」と「ナメた」気持ちで勉強したところで、当時低くても3~4倍、高いところでは20倍以上だった美大のデザイン科に受かるわけがない。専門学校なんて「滑り止めでウケる程度のレベル」だとバカにしていたが、実際のボクは「滑り止め」レベルだった。
当時は二年制だった桑沢デザイン研究所の授業料、それ以外にも必要な課題の製作費(美術の課題って、いちいち材料費が高いんだよな)や家賃などの生活費も相変わらず仕送りしてもらっていた。
そういえば、桑沢時代の二年間でバイトしたことは、たった一度だけだ。学校からほど近い表参道にあった「STUDIO V」という美容室が運営していたカフェの厨房のバイト。当時、そこのスタッフは全員お揃いで背中にロゴがプリントされた白いツナギを着ていて、それがカッコいいと思ったから桑沢の同級生3人同時に雇ってもらった。
けど、キッチンのチーフがめちゃくちゃイヤな奴(今だったら完全にアウトなレベルのパワハラとモラハラ)だったから、これまた3人一斉にたった一週間でバッくれて辞めたんだった。今、思い出した。その時は相当、困ったんだろうなぁ。ハハハハ。ざまぁみやがれ。
あ!
バイトで、もうひとつ思い出した。
一年生の時、学生ホール(生徒たちが溜まって課題やったりお喋りしたりする、大学の学食みたいな場所)で課題をやっていたら(授業中でもそこで課題やってる奴は結構いる)、知らない兄ちゃんが「今から30分五千円のバイトする人、いる~?」って、やって来た。
たまたま、その時はボクのクラスの何人かしかいなくて「やるやる!」って一番に手を挙げたら「ゴメンね~、女の子だけにお願いしたいんだよね~」
で、同じクラスの女の子が二人「やりま~す」て名乗りを挙げて「じゃあ、お願い!」で決まり。
でも、ちょっと怪しくね?と思ったのとお金欲しかったから「何のバイトなの?なんで男はダメなの?ね、なんで?」としつこく訊いたら「しょうがないなぁ、じゃあキミもいいよ」と採用。
そのまま学校から歩いて「現場」に向かう途中、その兄ちゃんに「で、何のバイトなんすか?」と尋ねると「うん。ちょっとね、映画、、、」としか答えない。んん?やっぱちょっと怪しいねぇ。
歩くこと10分少々。当時、渋谷パルコパート3の斜向かいのビルにあったクラブ「J-TRIP BAR SHIBUYA」に入っていった。
すでに何人もの人がフロアに散らばっていて、ボクらを連れてきた兄ちゃんは「ここに居て、音楽かかったら盛り上がってる感じで踊ったりしてくれれば、それでいいから」とだけ言い残してどこかへ行ってしまった。
クラスメイトの女の子は「これ、なんの映画だろ?有名な人とか出るのかなぁ」と、ちょっとワクワクしてる感じだった。ほどなく助監督(今ならそれが分かるけど、当時は全然そういうの知らないから、誰なのか謎の人)らしき、さっきとは違う兄ちゃんが脚立に乗って手メガホンで「えー、今から女優さんと男優さんがディスコ(確かに「ディスコ」と言ったのは今でもハッキリと覚えてる)で出会うシーンを撮りまーす。皆さん、盛り上がってお願いしまーす!」と言った。
あ~、やっぱり!
隣にいたクラスメイトの女の子に「多分ね、これAVだよ」と言ったら「え~!!?私たち出ちゃうの!?」と慌ててるから「いや、今言ってたじゃん。女優さんが男優と出会うシーンだ、って。それだけだよ。普通にクラブにいるエキストラだよ」と答えたら「そしたら、あとで観られるかなぁ」と結局ちょっとワクワクしてる感じだった。
「皆さん、なんとなく輪になってください。そこに女優さんと男優さんが混ざりますのでお願いしまーす!」と、素人相手にザックリな指示が出され、エキストラみんながなんとなく輪になった。
「では、女優さん入りまーす!」と聞こえてキョロキョロしてると奥から出てきたのは村上麗奈だった。1988年当時、村上麗奈は名実ともにトップのAV女優だったから正直驚いたが、すぐに音楽がかかり「はい!ではカメラ回りました~!スタートぉ!」の合図で撮影が始まってしまった。
ボクらは本当に頭数揃えるためだけのエキストラのはずなのに、結構ちゃんと輪になって踊ったりしてたら、「はい、そこの変わった帽子のお兄さん、もっと踊って、声とかも出して盛り上げて!」と、おそらくボクのこと(その日、確かにヨージヤマモトの「変わった帽子」を被っていた)を名指しで指示された。
ハズい!ハズいよぉ、その指名のされ方、、、、いや、百歩譲って自分の好きな音楽ならまだしも、クソ嫌いなユーロビートじゃ踊れんよ!しかも「声出して踊る」って、何よ、それ!ディスコじゃん!
は!
さっき、あの助監督、これは「ディスコで出会うシーン」って言ってた!
アイツにとって、今ここは「ディスコ」なんだな!
でも、やっぱり声出して踊るのはダサいからイヤだね、、、
と思いながら、目の前で村上麗奈と黒人男優(ディスコで黒人と出会うって、、、ベタすぎるやん)が踊るのを見ていると「はい!カットぉ~!オッケーで~す!」と“ディスコ”助監督の合図と共に村上麗奈と男優はあっという間に奥へ引っ込んで行った。
「はい、では次はパーツだけのカットくださ~い」と言われ、踊るボクらの足元だけを撮られたり胸元だけ撮られたり、「はい、次は音声だけもらいますので、盛り上がってくださ~い」と言われ、エキストラ全員でガンマイクに向かって「フゥ~!」やら「ヒュ~」やら「イェ~イ!」やら、ダッサい掛け声を録られて終了。
確かに一時間もかからず、正味30分ぐらいで五千円稼いだ。
そうして、ボクのAV初出演作品(であり、村上麗奈の引退作品である)「ラストインサート~東京淫女~」が完成した。
と、そんなバイトをすっかり忘れていた後日、学校でスチャダラアニに「キャプテン(先輩たちからの呼び名*理由は恥ずかしくて教えない)、村上麗奈のビデオに出てたじゃん。観たよ~」と言われて知った、、、、
バイトの話で、ここまで逸れるとは!
話を戻すと、、、、、
浪人時代から金銭的に甘えて過ごし、桑沢に入学しても変わらずに甘え、しかも一年生の夏休みには「持ってないと話にならないから」と普通自動車免許を取らせてくれ、一年生終了後の春休みには、いくら「貧乏旅行」とはいえ、1ヶ月以上にも及ぶ「美大生限定ヨーロッパ美術をめぐる旅」的なツアーにも「勉強になるから」と行かせてくれるという、金銭面的なことだけじゃなく、精神面的にも、人生経験的にも、とにかくズブズブに甘えてきた「あまちゃん」だった。
そんな精神的「ボンボン育ち」がようやく学生を終え、社会人として独立したと思ったら、たかだか二年ちょっとで「お勤め」を辞め、さらにまた甘えようというのだから、どこまでクズ人間なんだか、、、
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母親という存在が、どれほど精神的に強い存在なのかというのは、おそらく男性(息子)には一生涯本当の理解はできないだろうと思う。
世の中の男性全てはマザコンでいいと思う。
ママ、お母さん、かぁちゃん、オカン。
どんな呼び名になっても「母」という存在の大きさや価値は変わらない。
そういう存在であるオカンは、受話器越しのボクに催促するかのように
「で?結局はいくら必要なの?」
「え?いや、お金というか、その、事務所とか機材とか、ね」
「うん。で、いくらあれば、その友達と新しい事務所が開けるの?」
「えっとね、、、、」
翌日、間借りしている事務所ではなく、相方とはミスドで待ち合わせてお互いに報告することにした。
それから1ヶ月後だったか2ヶ月後だったか、、、
新しい部屋での事務所開きパーティーには同級生同窓生をはじめ、相方にとっては直系の、ボクにとっては遠縁(?)に当たるホントに色んな先輩方が門出を祝いに来てくれた。
この独立を機にジャケット仕事も少しづつだが確実に増え、実は最初に借りた部屋がすぐに手狭になり、ボクら二人は同じ建物内で部屋番号が変わった新しいデザインの名刺を持つことになった。
(デザインも電話番号もファックス番号もそのまま、部屋番号だけがこっそり変わった名刺。改めて見たら得意の「垂れ文字」って、すでにこの頃からやってたわ、、、)
そうして、この「smart Al’eckへの道」を書くきっかけになった件のCDジャケットの依頼がきた。
このコンピのリリース年を見ると「©1994年」とある。
信藤さんに作品集を見てもらったのは1993年。ひょんなことから相方とユニットを組んで、二人だけの事務所を立ち上げられたのが1994年。
およそ一年で自分たちのユニット名を冠した(中身はボクらとは全然関係ない)CDを世の中に出してもらうようになるなんて、、、、
ここからスマートアレックの歴史は、名前に負けない「知ったかぶり」をする「生意気なヤツ」となって4年半続くのです。
その間に相方はオザケン、ボクはスパイラルライフという、それぞれがそれぞれの人生のエポックメイキングとなる作品を残せる相手に出会うことになるのです。
「人生には何ひとつ後悔することも、無駄なんてこともない」なんて嘘くさいと思ってたけど、でも、こうやって書いてみると、どうやらそれもウソじゃない気がしてくる。後悔も無駄もゼロだとは思わないけど、少なくともやり直したいとは思わないから、それだけでも良かったな。
ここまで長い無駄話に付き合ってくれた皆さん、後悔してませんよね?
ありがとうございました。