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頭の中のモヤモヤに名前がついたら、輪郭がみえてきた


「ストーカー」という言葉がまだなかった1991年のころの話。



この文章のなかに、今から約30年ほど前の日本の社会を表しているドラマの一コマが書かれている。


ちょっとおかしい。というか、かなりおかしい。

どうやら少し付き合ったが、男のほうが距離を置こうとしており、女性が異様に接近してくるばかり、ということのようだった。

彼がいなくても家に上がり込んで帰るのを待ちますと言い放ち、いまみるとかなり怖い存在である。

でも1991年当時の家族は、そんなに邪険にしない。

さほどいやがっていない。この感覚がちょっといまはわからない。

この当時は、「ストーカー」という言葉が存在しなかった。
言葉が存在しないから、その概念も共有できなかった。
そしてその行為を正しく(?)怖がることができなかった。



そのような行為は今までもあったんだから、「あー、このことを『ストーカー』って呼ぶのね!」となる。公共の電波やSNSに乗って、【行為+言葉】でどんどんと広まっていく。「あー、私が今まで何度も受けてきた、あのことを『ストーカー』と呼んでいいんだね。』

「言葉」ができてそれが広がれば、その概念も広まり多くの人がそれを共有する。そうすると、わざわざ詳しく説明する必要がなくなり便利になる。




私の目に見えているこの世界は本当に存在するの?


幼い頃からよくこんなことを考えてた。

私が「青色だ」と言っているもの。
それは、私の主観を通してはあのような色は「青色」なんだけど、他人から見ている世界では、全く別の色を見ながら「青色」という名前で読んでいるだけなのではないんだろうか。
私とこの人は同じ世界で同じものを見ているように思えるんだけど、それは個人それぞれの主体を通して見ている世界だから、確認のしようがない。
あーもやもやするー。


頭の中のモヤモヤ

と。

だけど、読書を通じてわかった。
こういうことは、昔から考えている人がたくさんいて、それらに名前を付けていると。


赤色を見ながら、「本当は青色を見ているのではないだろうか」と疑うことはできる。
だが、その「本当は」という疑いに先立って、ある何らかの「感じ」を受け取ってしまっていることは疑えない。

フッサール:現象学からの解釈


なるほど。

こうやって「こう考えることはこういうことだ」と名前を与えられると、今まで頭の中でモヤモヤしていたものに、【輪郭】が与えられる

一切を疑っても、それを疑っている自分が存在することは絶対に疑えない。

デカルト:方法的懐疑からの解釈



ふむふむ、なるほど。その通りだ。




なにかの事象があり、それらに名前が与えられる。
後から名前が付くこともあるし、後から名前があることに気づくこともある。


どちらにせよ、事象に名前がつくことにより、輪郭が与えられる。

モヤモヤだったり、ただの「そういうようなこと」だったりした時には、それを手で掬って相手に渡そうとしても掬うことさえ難しい


だけど、名前がつき、【輪郭】ができたことにより、それは誰の手でもほぼ同じように掬うことができるようになる。そして、それを相手に渡したりできるようになるということだ。



やっぱり「言葉」ってすごい!
言語教師バンザーイ! ヽ(´ー`)ノ


眠いんだけど書きたいし、書きたいんだけど眠いし…
最後は無理やり終わらせた感がやばい…


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