イラストレーターになったきっかけと流れ、意外と知られていない広告系イラストの仕事
アラサーに突入してやっとのことで一人暮らしを始めたのですが、引っ越した月に、勤めていた会社から、半強制的にフリーランスのイラストレーターになってから、4ヶ月が経ち、10月ももうすぐ終わるようです。こんな流されまくりな一文で始めてしまいましたが、今回は、「どうやってイラストレーターになったのか」という話をしていこうと思います。4ヶ月も経ったのかぁ…。まだ何も進んでいない…。
イラストレーターになった流れ
長くなってしまいそうなので先に簡単にいうと、、、
・やりたいことが漠然としていて大学在学中に就活失敗
・学生時代から働いていたCM制作会社でアルバイトをしながら就活、色々あったけどやっぱりつくる系の人になりたい
▼
全然描けないのにCM制作会社勤務という履歴書と、流されやすそうな自分の雰囲気、性格(やりがい搾取可能)から、CM絵コンテの制作会社の内定をもらう
▼
・絵の仕事をしていることが嬉しすぎる、恩師に出会う。
・絵を描くのが楽しいと思えるようになる。
▼
・入社3ヶ月後、恩師が退職&エースも体を壊し退職。新人の私と同期の子ひとり含めて社員数4人に。
▼
・絵の仕事をして調子に乗る。追い詰められていた責任感のある上司のストレスの対象となる。ミス連発。
▼
・絵の勉強として漫画とアニメをようやく見始める。影響受けまくり。
・仕事に集中できなくなってくる。上司を怒らせまくる。
▼
・世に出るものが作りたい、もっといろんな人と関わって仕事がしたい
▼
・入社半年で退社、バイトしていたCM制作会社に何度目かの出戻り。
・イラストレーターとして雇ってもらうことに。
▼
・「色々やりたい」を本当に全部やらせてくれた。
・日中は絵コンテ、映像で使うイラストやデザインの制作
・終業時間からは企画→翌朝企画打ち。
▼
器用にこなせずパンクしながら走り続ける
▼
事件(のちに書いていきます)
▼
業務委託契約終了。完全フリーランスに。←イマココ
こんな感じです。
これだけで終わりでもいいのですが、色々あって流れ着いた今なので、これから書いていくフリーランスの生活、やりたいことの話、会社員時代の話にもつなげられるよう、イラストレーターになれた、きっかけの自分語りを少し書こうと思います。
私、染井は大学卒業後、新卒で就職できずに、学生時代からときどき働いていた映像制作会社でバイトをしながら、少しの生活費と奨学金返済のお金を稼ぎつつ、就職活動を続けていました。
もう何年か前の話なので忘れていましたが、当時は映像ディレクター、映画監督志望でした。小学から高校までは家族の影響でバレーボール一筋の生活、365日、朝から晩までバレーで、デザインや映像、芸術などにはあまり触れずに高校まできたのですが、なんとなく、小さい頃にファッションデザイナーになりたいと言っていたことや、美術の授業がとても楽しかったことから、進路希望にデザイン課を選び、スポーツ推薦で入った高校から、エスカレーター式で大学に進学しました。
美大というものを進学後に知ったくらい、本当に何も知らず、しかも絵もまったく描けませんでした。大学卒業時もほぼ画力は変わっていません。デザイン課でしたが、絵は1年次の初めにデッサンの演習があったのみで、在学中はほとんど絵を描いていません。
絵も描けないし、大学は技術的なことはほぼ教えてくれない。私がボールを叩いていた間に、周りの人はずっと絵を描いてきて、勉強して、芸術やさまざまな文化に触れてきた人ばかり。
今考えたら、こんな幸せな環境だったのかと思えるが、当時は「そんな人たちの前でこんな下手な、何もわかっていないようなやつが絵なんか描けない」という謎のプライドのせいで、授業の間は考えているフリをして、みんなの前で筆を進めていなかった。かなりの自意識過剰と、プライドというより言い訳モンスターだった…。
絵も描かず言い訳しかできず、バイトばかりの学生生活を送っていた私は、大学3年になっても全く作品のない学生でした。落ちぶれまくりの腐った大学生で、私の他にも同じような感じの状態で、よく一緒に遊んでいた友人はいたのですが、ほとんど中退していってしまい、成績ビリの座を一人で常にキープしていました。
うまくいかないことばかり(言い訳しかしていないので当たり前)で、ほぼ大学に行かず、途方に暮れていた頃(ちょうど「エモい」という言葉が流行り出した頃)、情緒的?な演出のテレビドラマが目に入るようになり、いつの間にかいろんな音楽を聴くようになり、映画も観るようになりました。
いつの間にかそれらの虜になっていて、だんだん日々が楽しく感じるようになっていました。
映像や音楽に浸りながらも、うまくいかない日々は変わらなかったのですが、そんな時に落ち込むのではなく、「これを作品にしてしまえばいいんだ」と思うようになりました。これが映像をやろうと思ったきっかけ、映像ディレクターになりたいと思ったきっかけです。
しかし、努力の仕方を完全に忘れてしまった腐り大学生染井は、企画やシナリオを書くでもなく、映像の作り方を調べるでもなく、映像の作り方を教えてもらえる場所をなぜか探していました。大学に通っているのに。そういう授業もいくらかあるのに。サークルもあったろうに。
環境のせいにしていたんですね。本当に。
私が通ったのは美大ではなかったのですが、さまざまな学科のあるキャンパスでおもしろい人はたくさんいたと思います。もったいないですね。
話を戻して、そこで見つけたのが、社会人でも、ダブルスクールで学生でも通える、日曜に通う、バンタンデザイン研究所の映像制作コースでした。
映画『そうして私たちはプールに金魚を』、『WE ARE LITTLE ZOMBIES』の監督であり、CMプランナーとしてもご活躍されている、長久允監督も、大学に通いながらこのコースに2年ほど通っていたらしい。
それを全面的に売り文句にしていたバンタンデザイン研究所に、まんまと引き込まれ、「ここに行けば〇〇になれる」という安直な考えをもったまま、私はキャリア 映像制作コース(1年制、学費68万、教材費18万)に通うことになる。ただでさえ金のない大学生だったのに、月1万5千円を支払う日々も始まった。いよいよバイトと創作活動だけの生活になった。
そこで私は15分の自主制作短編映画を作った。
(ここに通う1年間についても、また別で、通ってみたレポートとともに書こうと思います。)
その実績のおかげで、私は大学在学中にCM制作会社でアルバイトをすることになった。当時インターン選考などは落ちまくっていたが、アルバイトとして応募したのはかなり穴場で良い選択だったのだと思う。
(派遣バイトの会社を通せば未経験でも余裕でいけるみたい。
映像を作っていなくても、勉強していなくても、いける人はいけると思うが、環境のせいにするような私のような人は一つくらい作ってやっと面接に応募する勇気が出るくらいだった。
作りたい気持ちと、就職しないと大学に行った意味がない、安心が欲しい、肩書が欲しい、好きな映画監督はCMの監督出身、という考えから、まずはCMディレクターとして就職したいと考えていた。
短編映画作って、CM制作会社で学生からバイトして、もうこれいけるっしょ。というまったく根拠のない自信だけをもって、私は就職活動を始めた。
もちろん惨敗だった。
しかしこのCM制作会社と出会い、働かせてもらえたおかげで、今の私があることは間違いない。最終的にクビになったのだが。
こうして出会ったCM制作会社をなぜクビになり、今に至ったのか。
一人暮らしを始め、クビになり、今どうしているのかを次で書いていきます。
おやすみなさい。。。