立ち止まって、考えたこと → やめたこと
昨年、思いがけず病気になった。始めたばかりの仕事も辞めなければならなかった。非正規のパートタイム労働で、就業したばかりの疾病は、会社側も扱いにくかったであろう。何の手当もないし、契約更新の保障もできない。いや、ゴネれば、契約ぐらいは伸ばしてもらえたかもしれないが、それは結局、自分に負荷をかけることになるような気がしたから、潔く辞めることにした。
そうゆう、全ての時間を止めて療養するのは人生初めてのことだった。緊急帝王切開で子どもを産んだ時だって、傷に万全の麻酔をしながら休む間もなく乳呑み子を抱き抱えて母乳を与え、上の子どもの手を引いて幼稚園バスに乗せた。
その時から、今回、病気を知ったその時まで、もしかしたら大袈裟でなく、ずっと振り向くことなく走ってきた。いや、走って、の部分は大袈裟すぎるかもしれないけど、少なくとも、歩き続けてきた。そして急に止められたのだ。後ろから、肩をたたかれて。
病気は急に襲ってきたくせに、治療はなかなか進まないように思えた。仕事にはいけない、遊びに行くほどの元気はない、かといって寝てなきゃいけないわけではない、頭の中は病気のことでいっぱい。タブレットPCを抱え、検索しては止め、夜中に目を覚ましては検索検索検索。
まず思い煩ったのは、これは何かの罰なのだろうか、ということ。罰か、バチか。でもそうしたら、病気になった人は皆罪人なのか?ということになってしまうから、それは違うのだろう。しかしまとわりつく、生活習慣病、という言葉。そんな生活を習慣的に過ごしてきたから病気になったんだって、責めている他何者でもない名称。病気になったら否が応でも生活は変わる。生活習慣も変わる。病気になっただけで心理的負担があるのに、今までの生活習慣への後悔を促している。予防の為の名称だとは頭ではわかっているのが、その5文字に傷つけられる。
腕を急に掴まれたように立ち止められてから、ずっと考えている。眠るより考えたい。子どもたちに遺すべきものはなんだろう?そうゆうことを、自分で思っていたよりずっと早く用意しなければならなくなったんだな。
生活習慣を否定されたから、食事量は自然に減り、数キロ痩せた。治療すればすぐに死に至るのではないのに、そうゆうルートに自ら乗っていってしまっているようで怖くなった。マイナス思考はやめなければ。
家事は意外に、気を紛らわせた。食料の買い物や掃除、洗濯。でもどうしても目に入り、気がかりになったのは、大量の自分の荷物だった。
机周りとクローゼットの一角に、ロルバーンのノートが100冊くらいと、カラフルなペンが100本くらいある。今になって、それらをもう人生で使い切れないくらい持ってるのだということに気づく。それから色違い、形違いの新品のヒートテック、数百円で買える室内用スリッパ冬用夏用各数足、戴きもののおしゃれな新品のタオルハンカチ、かわいいエコバッグ、携帯用から大容量などサイズ違いの除菌ウェットティッシュ。買いだめ体質なのだ。
これらの処分を投げ出して許されるほどの重い病気ではない。それならこれから心地よく生きていく為のことを考えるべきかも。
そこで、立ち止まって考えたこと、から、やめたこと、にマイナーチェンジする。
買いだめはやめる。まず今あるものを減らす。残りが少なくなってきても、不安にならない。
ノートとペンはもう買わない。大好きだけど。売り場も見ない。いや、見るだけなら。
衣料ももう買わなくて間に合いそうだ。安いからと買ったりしないで、古く傷んできたら買い替えることにする。
タオルハンカチもエコバッグも、もったいないと思わず、どんどん使おう。とっておいても誰かが使えるものだけど、古くなったものを捨て、代わりにおろそう。
雑誌にしても、手芸材料にしても、もう増やさないようにする。興味の矛先も、それに向かう自身の関心の程度も、もうわかってきた。
元来、やめよう、という考え方自体に寂しさを感じていたのかもしれない。断捨離、というけれど、何も今すぐにやめなくたっていいじゃない、いや、やめると決めなくたっていいじゃない、やめてしまったらその後にあるのは静寂か虚無感か。やめると決めた後に向かって行く先は?
実際にやめようと決めてみたら、思ったより爽快感があった。それは、そもそも30種くらいの「いつかどうにかするもの」を5種くらいに絞れた、という程度のことなのかもしれないが、喪失感もなく、不思議と前向きな気持ちになれた。
いつまでも立ち止まったままでいる気はない。再び歩き出す為に決めたこれらの「やめたこと」は、唯一自責に足る生活習慣病だったのかもしれない。