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憲法の海図①──三段階審査と違憲審査基準論
はじめに
STUDY FOR ALL にて個別指導をしています、さむ(@kulaw_)と申します。
この「憲法の海図」では、悩ましい憲法答案の書き方、憲法の考え方について解説していく予定です!今回は、違憲審査基準論と三段階審査の関係について、受験生ファーストな目線で整理してみたいと思います。参考になりましたら、いいね・拡散よろしくお願いします!
結論「三段階審査と違憲審査基準論は並立しうる」
結論から言うと、三段階審査と違憲審査基準論には、異なっている側面と、必ずしも排他的な関係にない側面があります。
受験生としては、2つの考え方のいいとこ取りをして答案を書くことが戦略的に望ましいといえます。
以上の結論を説明するために、以下ではまず違憲審査基準論と三段階審査について概観します。そして、共通する側面と異なる側面を整理した後、いいとこ取り=実際にどう答案を書くかについて検討します。
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違憲審査基準論
絶対的禁止と相対的禁止
憲法上の権利の制限は、絶対的禁止と相対的禁止に服します。
絶対的禁止とは、憲法の次元で利益衡量が決着しており、解釈者がさらに他の利益との衡量をすることを許さない場合です。例えば、「検閲」の禁止(21条2項)や「残虐な刑罰」の禁止(36条)がこれに当たります。この場合、国家の行為が「検閲」や「残虐の刑罰」に当たることが論証されれば直ちに違憲となり、正当化の余地はありません。この種の権利の制限が問題となる場合は、「検閲」や「残虐な刑罰」の定義をどのように考えるかが重要になり、国家の行為が「検閲」や「残虐な刑罰」に当たるのならば直ちに違憲と評価されることになるのです。
一方で、多くの憲法上の権利は、他の権利・利益との調整が予定されている相対的禁止に服します。この場合、国家の行為が憲法上の権利の制限に当たるとしても、それだけでは違憲と評価されず、正当化の余地があることになります。
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比較衡量の限界と違憲審査基準論の必要性
では、相対的禁止に服する憲法上の権利について、正当化を行う際、どのような手法が望ましいでしょうか?裁判所が都度個別的(アドホック)な利益衡量を行うとどうなるでしょうか?
個人の権利・利益よりも社会や国家の公的な利益が優先されるおそれがあるかもしれません。また、裁判官によって判断結果が異なり予測可能性を欠くおそれもあるかもしれません。
そこで、裁判所による利益衡量の基準を、類型的に提供し、上記不都合を回避しようとしたのが違憲審査基準論なのです。
二重の基準論とその限界
現在の違憲審査基準論の手法について説明する前に、その「原型」とでもいうべき二重の基準論について紹介します。現在の違憲審査基準論は、この二重の基準論を発展させて精緻化させたものということができます。
二重の基準論とは、一般に、表現の自由などの精神的自由については経済的自由よりも厳格に審査することを主張する理論をいい、その由来はアメリカ憲法学説・判例法理にあります。
その論拠は大きく3つあり、①民主的政治過程論(表現の自由などの精神的自由は民主的政治過程にとって不可欠である)、②実体的価値論(精神的自由は実体的価値が経済的自由よりも高い)、③司法能力限界論(精神的自由については裁判所が十分な審査能力を備えている)が主たる論拠とされます。
ここで注意すべきなのは、(論者自身が必ずしも自覚的だったわけではありませんが)「基準」の中身は2種類の次元で観念されていたということです。すなわち、実体的な合憲性判定基準および審査基準という2種類の「基準」について、それぞれ二重の基準が観念されてていたということです。
これだけだと分かりづらいと思うので以下に敷衍してみます。
まず、実体的な合憲性判定基準というのは、客観的にどのような基準を用いるか、という問題です。ここでは、一方で精神的自由の制限については厳格な基準が、他方で経済的自由の制限については合理性の基準が妥当すると考えられていました。
次に、審査基準というのは、裁判所がどの程度立ち入って審査するのか、いわば裁判所がどの程度よく見えるレンズを使って違憲審査するのか、という問題です。ここでは、一方で精神的自由の制限については裁判所が立ち入って審査すべき(よく見えるレンズを使うべき)と考えられ、合憲性の推定が排除されていました。他方で経済的自由の制限については裁判所は立ち入って審査することが抑制され(ある程度見えるレンズで十分)、合憲性の推定が働くとされていました。重要なのは、二重の基準論が、付随的審査制を採用するアメリカに由来するものであることから、多分に訴訟法的な発想、論証責任を原告と被告(国)のどちらに課すのかという発想を採っていた点です。後述しますが、この点が三段階審査とのひとつの相違点となります。
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さて、先ほど「二重の基準論」には大きく3つの論拠があると述べました。しかし、これらには有力な反論が加えられていたことに注意する必要があります。例えば、論拠②経済的自由は精神的自由よりも実体的に価値が劣ると決めつけてしまっていいのでしょうか?また、③経済的自由の制限について裁判所には審査能力がないと常にいうことができるのでしょうか?
二重の基準論の最大の問題は、精神的自由については厳格な審査を、経済的自由については緩やかな審査を行うという「図式的」な手法に陥ってしまう点です。
このような問題意識を踏まえて、違憲審査基準論内部でも限界を克服するように徐々にその理論が修正されることになります。
すなわち、精神的自由か経済的自由かによって二重の基準を使い分けるだけでなく、中間的な審査基準も用意されることになりました。また、精神的自由の優越的地位を強調することに終始せず、①権利の重要性、②制約の態様・程度、③裁判所の審査能力を踏まえて、審査基準設定のための論証をより説得的にしようという傾向もみられるようになったのです。
みなさんの知っている違憲審査基準論は、このようないきさつで形成されてきたものなのです。
違憲審査基準論の手法
では、現在の違憲審査基準論の手法について説明します。
一般に、①権利の重要性、②制約の態様・程度、③裁判所の審査能力を踏まえて3つの基準を使い分けるとされています。
厳格審査基準:目的がやむにやまれぬ利益の保護にあり、手段がその目的を達成するために必要最小限度ものであることが要求される(合憲性の推定なし)
中間審査基準:目的が重要な利益の保護にあり、手段がその目的との間で実質的関連性を有することが要求される
→厳密には、合憲性の推定があるか否かの点においてさらに基準が区別されますが、ここではひとまず同じレベルの基準と抑えておきましょう。
合理性審査基準:目的が正当な利益の保護にあり、手段がその目的との間で合理的関連性を有することが要求される(合憲性の推定あり)
ここで重要なのは、違憲審査基準論においては、利益衡量の基準をいかに類型化するかという問題意識のもと、あらかじめ基準がメニューとして用意されているという点、実体的な合憲性判定基準に加えて合憲性の推定の有無にかかわる審査基準も観念されているという点です。
三段階審査
三段階審査の登場
このように(理論の修正はあったものの)やや硬直的な思考フレームだった違憲審査基準論が頭打ちとなった状況に対して、異なる思考フレームとして登場したのが三段階審査論でした。ドイツ憲法学説・判例理論として紹介されたこの理論が、ロースクール制度開始に伴う憲法教育の見直しもあいまって、一躍脚光を浴びることとなったのです。
三段階審査の手法
三段階審査は、防御権を憲法上の権利の典型として想定した違憲審査の論証の型です。
防御権の審査は、①保護領域→②制限→③正当化と進みます。このことを捉えて三段階審査と呼ばれます。
三段階審査は、①において憲法から獲得できる原型が確認され、②において原則に対する例外に当たることが論証されれば、③において正当化されない限り違憲という結論が出るという審査手法だといえます。
(そして、実は①②を通して「原則—例外図式」を獲得できるかが、三段階審査にとって極めて重要なのですが、この点は次の記事以降で詳細に論じる予定です。)
③正当化の論証手続は、③-A形式的正当化、③-B実質的正当化から構成されます。
形式的正当化においては、基本権制限が法律の根拠を有するかどうかの審査が行われ、法律の留保、委任立法の限界、条例による制限、明確性の原則等が問題となります。
実質的正当化においては、手段審査としての(広義の)比例原則が中心となります。a手段の適合性、b手段の必要性、c(狭義の)比例性をクリアした場合、基本権制限が例外的に許容されることが晴れて論証されたことになるのです。
そして、比例原則の適用においては、審査密度が低いものから高いものまであることが想定されています。例えば、重要な権利に対する強力な制限であれば、比例原則が厳格に適用されると考えられています。
このように確認してみると、違憲審査基準論と三段階審査は重なり合うことがわかります。というのも、上述の通り、違憲審査基準論は、相対的禁止に服する憲法上の権利の制限について、正当化のための利益衡量をいかに類型化するか、という議論でした。そうだとすれば違憲審査基準論の適用範囲は、三段階審査の論証プロセスにおける実質的正当化の場面にほかならないのです。
また、重要な権利に対する強力な制限であれば審査が厳格なものになるという点においても、軌を一にしているということができます。
では、違憲審査基準論と三段階審査(比例原則)は、実質的正当化のための思考ツールとしてまったく同じなのでしょうか?三段階審査の問題点という観点から検討してみましょう。
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違憲審査基準の問題領域は実質的正当化の領域として把握できる
三段階審査の問題点
一躍表舞台に登場した三段階審査には問題点はないのでしょうか?
この点、違憲審査基準を擁護する論者から以下のような指摘が加えられています。
目的審査が消極的役割にとどまること
1つ目の問題点は、三段階審査においては目的審査に消極的な役割しか与えられていない点です。
違憲審査基準論においては、手段審査と連動して、目的審査も実体的に審査される場合があったことを思い出してください。例えば、厳格審査基準を採用した場合、目的がやむにやまれぬ利益の保護にあることが要求されていました。
一方で三段階審査では、比例原則を中心とした手段審査に重点が置かれ、目的審査は脇役だったということができます。すなわち、目的が正当なものであることが前提とされ、そのような正当な目的との関係で、手段が比例原則を満たしているかが問われているのみであり、その意義は消極的なものにとどまっていたのです。
狭義の比例原則に意義があるのか疑わしいこと
2つ目の問題点は、広義の比例原則適用において、狭義の比例性を独立して検討する意義が乏しいのではないかという点です。
狭義の比例性とは、「手段は追求される目的との比例関係を失してはならない」という要請です。
違憲審査基準論を擁護する論者からは、手段の適合性と必要性を審査した後に、改めて狭義の比例性を検討しなければならない意義はないのではないかと批判されています(ちなみに、ドイツの議論においても狭義の比例性不要説が唱えられていることも論拠のひとつとなっています)。
さらに、この狭義の比例性という項目が、本来、違憲審査基準論が克服しようとしてきた「裸の利益衡量」への先祖返りを起こす口実として機能してしまうのではないかとの懸念も示されています。
実体への過度の傾斜がみられ論証責任の発想がうすいこと
3つ目の問題点は、実体への過度の傾斜がみられ論証責任的な発想がうすい点です。
違憲審査基準論においては、「基準」という概念のなかに実体的な基準である「合憲性判定基準」と訴訟法的な基準である「審査基準」(走り幅跳びのたとえを思い出してください)が存在しました。「審査基準」においては、合憲性の推定があるか否かという点において、デジタルな(離散的な)=二項対立的な発想がとられていたということができます。(つまり、合憲性の推定があるかないかで二分されており、その中間的な領域はありえないということです。)
一方で三段階審査においては、まずもって実体的な合憲性判定基準に議論が集中しているきらいがあります。すなわち、裁判所の審査能力などの視点が抜け落ちていることがあるのです。
たしかに「審査密度」という概念を用いて、比例原則の適用において厳格な審査から緩やかな審査まであることが想定されています。しかし、その審査密度はスライディングスケール的なもの=アナログ的な(連続的な)ものであって合憲性の推定の有無といった論証責任の観点が欠落しているとの指摘を受けているのです。
共通する側面と異なる側面
共通する側面
これまでの検討を踏まえると、違憲審査基準論も三段階審査も、裁判官による裸の利益衡量をいかに統制するかという問題意識を共有しているといえます。すなわち、さまざまな事情をいわばごった煮で総合考慮してしまう利益衡量に対して、裁判官の審査過程を分節し、節々において適切な判断手法を主張することで、その透明化や予測可能性の確保を図ろうとしたのが、違憲審査基準論であり、三段階審査なのです。
また、正当化において実際に用いる手法として目的手段審査を採用している点も共通します。
これらの点において、2つの思考系統は排他的な関係になく、むしろ積極的な融合可能性、相互の対話可能性もひらかれているとさえ考えられています。
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(駒村圭吾『憲法訴訟の現代的転回——憲法的論証を求めて』(2013年、日本評論社)135頁。)
異なる側面
三段階審査は、憲法上の権利の制限の議論を保護領域、制約という論証プロセスに明示的に組み込んだ点が意義高いといえます。これは、従来の違憲審査基準論が否定するものではないものの、必ずしも意識的に検討されてこなかったため評価できます。
また、違憲審査基準論において必ずしも意味が明確でなかった概念の内容(たとえば合理的関連性)を、手段適合性、必要性などの観点にさらに分節化し諸概念の定義を整理したという点も評価できます。
一方で三段階審査は弱点も指摘されていました。
まず、目的審査が脇役に追いやられてしまっていることです。ここは違憲審査基準論が主張するような類型実体的な審査を積極的に行うべきでしょう。
次に、論証責任の発想がうすく、合憲性の推定の有無についての言及がない点です。付随的審査制を採るわが国では、当事者主義的な訴訟構造を前提として、どちらの当事者に論証責任を負担させるかという観点を取り入れることが自然かもしれません。
また、狭義の比例性についても独自の役割に疑問が呈されていたのでした。
どう答案を書くか──ひとつの参考例
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