そうま 声優目指し上京した日々
そうまだよ
いつも応援してくれてありがとう。
今日は、みんなにそうまって人間をもっと深く知ってもらいたいから、俺の生い立ちについて、包み隠さず話そうと思う
正直、今までの人生、楽しいことばかりだったかって
そんなことはなくて、むしろ茨の道だったかもしれない
でも、その度に這い上がってきた。諦めなかった。
そして今、みんなの目の前に、SNS、音楽、ライブ、配信を通じて繋がってられる
それは、決して当たり前のことじゃない。たくさんの人に支えられて、そして、諦めなかった俺自身の力でもあると思ってる。
だから、今日は俺のこれまでを全部話す。少し長くなるけど、最後まで聞いてくれると嬉しいな。
バスケットボールに捧げた青春時代_______________
俺は、静岡県の浜松市、西の方で育ち、両親に愛情を持って育てられた
小学3年生からバスケットボールを始めた俺はどんどん成長していき
やがて推薦で強豪校へと進む。
この高校を選んだのは、バスケットボールで全国に行くため。小学時代から得意なムードーメーカと高身長を活かし、高校でもバスケットボール人生を捧げると誓った
この強豪校は、中学時代に戦ってきたライバルたちもたくさんいた。最強メンバーが集まった、まさに夢のドリームチーム。
「このチームなら、俺が中学で叶えられなかった全国の切符を掴める!」
そう信じて疑わなかった。
でも、現実は甘くなかった。
中学時代の肩書きやキャプテンの実績なんて、ここでは何の意味も持たなかった。1年目からベンチ入り。期待されていたはずなのに…。
気がつけば、バスケなんて関係ないところで、俺の心は死んでいった。
いじめに苦しんだ2年間______________
「八方美人、誰にでも優しくしている姿がウザい」
嫉妬、妬み、陰口、悪口の嵐。
俺は、いじめられた。
昼休みに飛んでくる卵焼き。かけられた味噌汁。
誰にも相談できなかった。2年間、地獄のような日々だった。
「夢を追いかけるんじゃねえのかよ」
「切符を手に入れるんじゃねえのかよ」
「そんなことしてる暇があったら、夢に向き合えよ」
心の中でいじめてきた奴らに、毎日叫んでいた。
それでも俺は、諦めずシュート練習をした。足の爪が剥がれるまで靴を履き潰した。何度も先輩に食らいついた。何度も殴られその度に立ち向かった。
心が死んでも、俺は大切な仲間のために、自分の夢の為に諦めなかった。やり続けた。
掴みかけた夢、そして絶望______________
やっとの思いで掴んだ全国大会のチケット。
試合に出られる、そう思っていた。
でも、小学生の頃に負った古傷が耐えられなかった。全
国大会を前に、俺は決断を迫られた。
戦力外通告。
俺の高校バスケ人生は、ここで終わった。
「バスケができないってことは、いないものと同じ」
監督から告げられた推薦剥奪の言葉。
俺は、夢の舞台に立てなかった。
トイレに籠る毎日。
現実逃避するためにゲームセンターに通い、 帰ったらなにも考えず寝る
そんな日々が続いた。
新しい世界との出会い_______________
そんな俺を救ってくれた、新しい世界。
友達からアニメについて語られ、気づけばオタク友達ができてアニメを朝まで見ている毎日。
そしてその友達に「声がいいね」と言われた一言がきっかけで
声優として活動してみたいとおもい「声」について勉強する日々が
始まった。
そして、声優を目指す傍ら、兄からもらったボロボロのPCでインターネットにのめり込み「歌ってみた」というカテゴリにであった。
声優を目指すことと並行して、ネットでも活動しようと
自分の声を活かしてまず行動してみた
ネットに初めてアップした動画は、たった20再生。
でも、知らない人からコメントが来た時、本当に嬉しかったことを覚えてる
高校生で実は雑誌に載ったこともあった。
「俺の声で誰かと繋がれる」
本当に最高だった。ここが俺のホームだって、舞い上がってた。
上京、そして挫折________________
ネットでもいろんな方に見てもらえて実力がついてきたと思ってたから
声優も絶対になれる、そう思って高校卒業と同時に勇気を出して上京した
声優の専門学校に通いながら、バイトをいくつも掛け持ちする日々。
新しい出会いもあって楽しくて、仲間も増えて、幸せだった。
でも、俺は遊びに来たんじゃない。
声優になれるのは、全国でたった3%
学校に通ってればプロになれると思ってた。
得意のムードメーカーを活かして頑張ったけどオーディションは受からない
何回も何十回もチャレンジしたけど、ダメだった。
それでも諦めきれなくて、ダラダラと夢に執着する。いつかは叶うと思って、舞台練習を続けた。
最後の挑戦________________________
夢を追い続けながら動画投稿の日々
上京してから何年経ったんだろう
たまたまYouTubeで流行り始めていたワード「ASMR」
これだ。
最後かもしれない、俺が生きる場所
インターネットで人気になってやるって決めた。
声優時代、売れてなかったやつが、ネットでは売れてる現実。
昔一緒に雑誌に載ったやつが、人気になってる現実。
昔の後輩が、俺より先に行ってる現実。
俺は死ぬ気で這い上がった。
KnightA-騎士A-への道_________________
やっと掴んだ、「歌い手グループ」への挑戦のキッカケ。
初めて掴んだ最後のチャンス
このチャンスを掴んで、今度こそ人気になると、神に誓った。
階段を上っていく毎日。増えていく収入。変わっていく環境や生活。
生きるのに必死だったけど、がむしゃらに活動してた日々が楽しかった。
メキメキ実力をつけていって、気づけば選ばれたやつしか立てない夢の舞台に立っていた。
これからと今________________________
俺は生きてきた中で初めて、初めて親孝行ができた気がした。
俺の母親は、いつも元気いっぱいで明るい人だった。
家の中はいつも母親の笑顔と笑い声で溢れてて、 まるで太陽みたいな存在だったな
時には反抗期があって、母親にきつく当たっちゃったこともあったんだけど母親はそんな俺を叱るんじゃなくて、 「気持ちはわかるよ。」 って、いつも優しく包み込んでくれた。
そして俺の中で救われてきた言葉
「人に優しくするのは、巡り巡って自分に返ってくるからだよ。」
と常に声をかけ続けてくれた。
今でも俺の心に深く刻まれてる。
そして時は経ち、グループとして階段を登っている中
母は病気と診断された。
それでも、どんな時でも笑顔を絶やさず「そうまならきっと人気者になれるよ!」 「周りの人に感謝して、夢に向かって頑張ってね。」 と俺を励まし続けてくれた。
闘病生活の中でも、 弱音を吐くことなく、前向きに生きる母親の姿は、 俺にとって最高の「親」であり憧れの存在だった
もしかしたら、 「人気者になる」 っていう言葉は、
母親の精一杯の願いだったのかもしれない。
俺は考えた
そうまとして何ができるんだろうって。
それは、より多くの人に「楽しい」を届けられるように、 これからも精一杯頑張ること
俺は俺の、お世話になった人や、あの時、優しくしてくれた
手を差し伸べてくれた、支えてくれたお前に人生でお返しする
そしてこの記事を見てくれてるお前もそう
俺はこれからも負けない、そしてどんなことがあってもお前のために歌い続ける、声を届け続ける
いつも俺を信じて、励まし、応援し続けてくれた母。
人に優しくすることの大切さを教えてくれた母。
そんな母親への感謝の気持ちも忘れず、 歌い手として、そしてそうまという人間として、 成長し続けていきたい。
俺とっての原点。 それは、紛れもなく「母親との日々」なんだ。
そして、遂に俺はお母さんに「横浜アリーナ」という何万人も入る最高のステージで想いを伝えることができた。そして生まれてきたことは間違いじゃなかったと証明することができた。
俺を育ててくれて、生んでくれて本当にありがとう。
母さんと過ごした日々を絶対に忘れない。
そして、俺はこれからの未来に期待して、頑張ろうと思った。
まだまだ細かいお話はたくさんあるけれど
続きは配信でもお話してるからぜひ会いに来てね。
これからも、そうまとしてできること全力で頑張るし
俺と出会えてよかったと思ってもらえるように届け続ける。
最後まで聞いてくれて、ありがとう。