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広告賞に恋恋とする【地方広告と賞①】

香川に来た移住コピーライター。次にしたかったことは「広告賞をとること」でした。
私が初めてとった広告賞は、CCTクリエイターズクラブ高松の「眞木準審査員特別賞」。30歳のときです。

眞木準ですよ!!

って叫んでも、叫び返してくれるのは同世代のコピーライターぐらいかな・・・。

でも「でっかいどう。北海道」は、どこかで聞いたことがあるのでは?「恋は、遠い日の花火ではない。」はどうでしょうか?
このコピーを作ったのが眞木準です。

コピーライターを目指していた大学生のときから大大大大好きだった眞木準と中畑貴志。神様のように思っていたコピーライター眞木準が選んでくれたのが、私の地味な通販広告のコピーだったのです。

眞木準は名作コピーをいっぱい書きましたが、私は彼の「売るコピー」が好きでした。たとえば、バーバリー ブルーレーベルの「きょ年の服では、恋もできない。」そりゃそうだなと服を買う、若かりし頃の自分。

そんな話やこんな話を受賞後の飲み会で神様と話していると、私が山口・湯田温泉で物心つく前から小学校卒業までずーっと診てもらっていた小児科医の城島先生が、なんと眞木準のおじさんであることが判明!お互いに顔を見つめて「えっ!」と叫んで絶句。神様と心がつながったこの瞬間を私は忘れません。

神様にGOサインをもらった

自分の能力につねに不安を感じていたセールスプロモーション広告出身の私でしたが、この賞と眞木準には「このまま進め」と背中を押してもらったような気がしました。

翌年には、前にも書いた電力会社の新規事業のテレビCMで香川広告賞をいただき、その後も四国新聞広告賞、ACC全日本シーエム放送連盟の地域奨励賞など、地域の広告賞をコンスタントにとるようになりました。

その傍ら、広告賞の最高峰、東京コピーライターズクラブ(TCC)新人賞にも応募し続けました。

第2子の妊娠中に切迫早産になり、朝行った病院でそのまま急遽自宅安静を言い渡され会社を長期休むようになった日も、その日がTCCの締め切り日だったので会社で必要なものをかき集めて自宅に帰りました。発送作業を這いつくばって行い、自宅に来た郵便局員に渡したあとは、翌日から全く立てない寝たきり状態に。

でも、TCCはとれませんでした(いまも)

TCCとれないコピーライターってコピーライターって名乗れるの?

そう思っていたので、ずっと自分が本物ではないような気がしていました。そして当時は、40歳を過ぎてキレキレのコピーを書いている現役コピーライターを見たことがなかったので、コピーライターは40歳で才能が枯渇するのだろうと思っていました。勝手に「コピーライター40歳死亡説」をとなえ、40までにTCCを取らないとコピーライターとして終わりだ、と恐怖を感じていました。

なので私の30代は賞を取ることに恋恋としていました。
それがいつの間にか、あんなに好きだった広告の仕事を、どんどんつまらなくしていくことになったのです。

(次回につづけます)

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