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『小学校 〜それは小さな社会〜』を観た感想。改善するべきなのは本当に”学校”なのか考えさせられる映画
知り合いの先生が「『小学校 〜それは小さな社会〜』を観てから対話会しましょうー!」というので、観る機会をいただけました。
僕自身は学校の先生ではないけれど、学校や、教育に深く関わる立場だからこそ観てみる価値がありそう。
乳児を連れて視聴したので、途中うまく寝れなくてグズってしまい、少し席を外したりしましたが、ほぼ大部分は観れた感じ。
※ちなみにネタバレを大いにしますし、なんだか書いていたら1万文字を超える大ボリュームになってしまいました(笑)
まだ観てなくて感想を知りたくない人はそっと閉じてくださいね。
対話会ではたくさんの方が参加し、映画を観た感想を述べていきました。
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このように映画の内容については賛否両論。noteでは肯定的な意見が多く、Xや、FacebookなどのSNSでは批判的な視点が目立ちますなぁ…。
監督の想いとしては『人は6歳ではどこも同じ子どもなのに、12歳になる頃には日本人になっている』とのこと。この作品は「日本の教育は素晴らしい」と思って作った作品なのだそうだ。
しかし、すでに体験して”当たり前”になっている僕たち、”日本人”はすぐに荒を見つけ出してしまう。自分の体験してきたフィルターが決して良いものばかりではなかったことの証明でもあるのかなと思うけど。
そのため、僕自身は批判的なスタンスを取らないように気をつけています。この映画のチラシにもあるように大事なことは
『いま、小学校を知ることは未来の日本を考えること』
だから。安易に批判しないように感想を述べていきたいと思います。
また、映画に関して調べたのだが、撮影時間は1500時間にものぼるという。
その中で、実際は1時間半しかないのです。
つまり、意図的に見せたいと思わされたシーンしかないということ。ドキュメンタリーはある方向性に沿って作られた厳選された約2時間だということを肝に銘じて、さぁ、感想を語っていきまっせ。
『小学校』の見どころシーンから感じたこと
『小学校』には大きく分けて5つのシーンがあります。
1年生を迎える会の楽器演奏を担当する女の子
放送委員の男の子の努力
コロナ禍で変わりゆく学校で過ごす男の子
厳しい指導方法に悩みながらも突き進む先生
自由と制限のバランスを考えている先生
この5つのシーンに対して、簡単に振り返っていこうと思います。
一番賛否両論になるであろう1年生を迎える会
なんと、この部分はほぼすべてのシーンがYoutubeで公開されていました。
これはこの映画の短編版である『Instruments of a Beating Heart』が第97回アカデミー賞の短編ドキュメンタリー映画賞にノミネートされているから。
そちらはニューヨーク・タイムズが運営している動画配信サイト「Op- Docs」にて配信中。23分にも及ぶので、ほぼ丸ごと入っていると言っても良いですね。
自分がやりたかったと悔しがることも、自分のことではないのに合格した時には周りが目に涙を浮かべて喜んでくれることも、素晴らしいことだと感じました。
日本以外の国では、電車が時間に遅れても平気だし、物が盗まれたら「盗まれたやつが悪い」という感覚。
こういうことを通して「他人をおもんばかる意識が醸成されていく」のだと思います。この映画でいうところの『12歳までに日本人になっている』という言葉どおりですね。
でも、このシーンの一番の見どころは学校の先生がアヤメちゃんの練習不足をみんなの前で叱責するシーンだったかなと。
あれって、「わざわざみんなの前で怒らなくても良いじゃないか」という見方もできるんですが、
「今言わなければ伝わらないと思っている」と後の対話会で先生から直接聞いたことが忘れられません。
指導方法に答えはないし、映画館という自分とは関係ない世界での出来事として客観的に捉えられるからこそ、冷静に意見ができるのであって、現場では「あとで」という瞬間が訪れないことが多い。
それに、叱った先生も翌日、下駄箱に
きょうも、あさのしたくを早くおえたら、
いっしょにれんしゅうをしましょう!
という風に付箋を貼っているじゃないですか。
このシーンを見て、本当はあのようなことを言わなくても良いんだけど、オーディションという「やりたい」という意志を持ち、舞台に上がり、他のやりたかった子を蹴落として舞台に立ったという自覚を持たなければいけなかったと考えるとあの叱責もうなづけます。
叱らないとアヤメちゃんのためにならないと思ったからこその叱り方なのだろうと思えました。
昔、声優の養成所とかにも通っていましたけど、やっぱり現実のオーディションもそうですよ。
アニメにしろ、舞台にしろ、自分を蹴落として上に上がった人間がヘラヘラしていたら「おい、そこ代われ」と文句言いたくなる。
あの場でそれを気づいていたのは先生だけだった。
さらに叱るだけで終わらず、他の先生がフォローに入ってくれている。
大丈夫。もし、叱られたら…先生も一緒に叱られてあげるよ。
叱っていた先生が『父性』だとしたら、担任の先生は『母性』で接してくれている。ここがまさに小さな社会だと思います。
叱る人もいれば、救う人もいる。学校を出たらこんなことの連続なんですよね。
叱るだけのシーンで「日本の教育は駄目だ」と感じてしまうのは早計じゃないかな。個人的には人が育つためには父性も母性も大切なのだと改めて思えたシーンです。
自主的な中で精一杯頑張ることができる男の子
放送委員の男の子は縄跳びが苦手だけど、運動会でみんなで一斉に縄跳びを披露する…という課題に直面し、自身の苦手を克服して運動会当日に望むというシーン。
良い面として見れば自身で課題を見つけ、自身で克服を決意し、自宅で自主練を繰り返し、当日成功させるという子ども視点に立てば良いシーンと捉えられる。
一方で、先生が「心を一つに!」なんて言うものだから、そもそも一斉で縄跳びをやることが「軍隊みたいだ」という批判も出てきてしまうのは、日本ならではかな。
あの男の子は一生懸命練習して、克服して、当日はキレイに飛べていました。
しかし、すぐ後ろでは別の男の子が何度も躓いて、うまく縄跳びができていないという様子がさりげなく映されていた。
縄跳びを一斉に飛んだから心を一つになった!…なんてことは言えないんですよね。
学校の運動会のシステムそのものに課題があると感じている人が見ると、その点がより強調されて感じられるのかなと。
もちろん、システムそのものに対して違和感がないかと言われればありますよ。
だけど、個人的には子どもの頑張りを褒めたい。自身の苦手を克服するというのは簡単にできることではない。
そもそも、あの縄跳びも自分で考えたものではなく、学校から出された課題です。
そうなると『主体的』ではなく、『自主的』という括りになります。
でも、社会で主体的になれるシーンは実際、多くはないし、主体的に活動するってとても難しいのです。基本的には誰かが考えたものに対して、制限のある範囲で頑張ることが求められるのが社会です。
学校が考えたことを、自分ごとにして縄跳びを自ら努力して克服していくシーンは、社会に出ても必要なことだと感じざるを得ません。
今、高校生以上の子たちがアルバイトで「使えない」と経営者の皆さんから言われていたりする。
これは「言われてないからできません」という子が増えているかららしい。
こういう制限された中でも、自分ができることを見つけて頑張れる子が少しでも増えてくれると嬉しいなぁ。
コロナ禍の変わりゆく学校で過ごす男の子
映画ではコロナ禍のこともまざまざと見せつけられた。
あ、あの子、マスクしていないですね〜。
だめですね〜。いけませんねぇ〜。
マスク警察という人が地域には必ずいましたが、学校でもいたのです。
他にも小学校入学前の準備をする様子、登下校で準備をしていなくて慌てて出ていく様子、オンライン授業で電波が悪くて授業になっていない様子…。
学校の先生以外で出てくるのが家族ですが、この家族で何が起こっていたのか?まで鮮明に映し出されていたのは、これからを考えさせてくれるキッカケになると思います。
正直これは、僕も自分自身のことを思い出すことが多かった。
オンライン授業はてんでダメダメ。
自分の学校でも同じようにGoogleクラスルームに入れない、オンライン授業では子どもたちを置いてけぼり、電波が悪くて何言ってるか分からないなんてことが毎日起こっていました。
さらに家庭では、親がサポートしなければいけないので、親も仕事を休むしかないということも多かった。僕らは個人事業主だからある程度自由だし、うまく対応できたけど、他の家庭はかなり苦しかったと思う。
ただ、社会ではオンラインの研修や、講演会、なんなら組織の運営でさえすべてオンラインで完結する時代になってきている。
先生としては「学校に来てこそ指導ができる」なんて言う方も多いと思うんですが、ここは頑張りどころじゃないかなぁ。デジタル活用にはまだまだ壁が多い。
さすがにここは日本の学校や、ITリテラシーの低さを露呈してしまっている感は拭えなかったのではないかと思う。
だけど、それも考えさせるためのポイントとして『敢えてダメダメな部分を見せる』という狙いもあったのだろう。
厳しい指導方法に悩みながらも突き進む先生
熱血で厳しい指導をする若い先生。他人に厳しければ自分にも厳しいって感じで、ビシバシ指導を行うシーンがありました。
他の先生もいる中で、あの先生がクローズアップされることが非常に多かったですね。
避難訓練時、「遅いぞ!」と言ったり、静かになるまでの時間が無駄と児童たちに言ったり、これから中学生に上がる6年生の子どもたちに対して喝を入れている。
この先生の気になった点は
「厳しすぎるんじゃないですかとか、
時代に合ってないとかよく言われますよ」
「理解はされないだろうなって思います。
だけど、やった結果が数十年後に出てることを信じています」
という言葉だろう。
(全文を覚えていないので、少し違うかもしれないけど、伝えたい内容は合っているはずw)
実際に怒られるのは嫌だし、劣等感を植え付けられる子もいると思う。細かいところで「おいおい」って違和感を覚えるのももちろんあった。
ただ、この先生には父性とも言える厳しくする理由がしっかり語られる場面がある。それはこの先生が先生たるアイデンティティで、それを「時代に合っていない」で一蹴するのはちょっと忍びない。
なぜこの先生の肩を持つかというと、腕相撲を子どもたちと行って良好なコミュニケーションをとっているからだ。
子どもたちは心を許せる存在には敏感で、あれだけ厳しくても話を聞くのは、この先生が子どもたちに「厳しく言っても許せる存在」として君臨しているからだ。
つまり、家庭での父親役なのだ。
社会は優しくない。生成AIも出たし、これから益々厳しくなる。そんな時に甘いことばかりでは生きていけないのは事実です。(さきほどの高校生の例もそうです)
愛されるからこそ、厳しく言える。今の時代、家庭にも地域にも欠けてしまった大事な父親役だったのかもしれません。
むしろ、こういうことをよく撮影させてくれたなって思う。
今の時代、この内容を見たら名指しで大炎上してもおかしくないのに、撮影させてくれることが「何か伝えたいと思うことがあり、それを撮影スタッフや、監督も汲んでいる」というのは深読みしすぎかな?
自由と制限のバランスを考えている先生
1年生の担任となる女性の先生も比較的シーンが多かったです。
この先生は最初にとても気になることを言っていました。
「制限と自由の平均台の上にいるようです」
これは今の学校をうまく捉えた言葉だったなと感じます。
先生たちも子どもたちを自由にさせて学ばせてあげたい。だけど、学校というカリキュラム(制限)の中でどれだけ自由にさせてあげられるのかを常に考えているようでした。
多くの意識高い保護者は「もっと子どもたちのことを第一に考えてください!」と言ったりするのですが、現場に入って実際に一緒にやっていくと、それがどれだけ難しいことなのか分かります。
フリースクールや、オルタナティブスクールのような自由な環境ではない中で、どう接していくと良いのかを悩みながら子どもたちに関わっている苦悩が伝わってきました。
対話会で塾の先生が言っていたのですが、小学生は最大8人、中学生は15人くらいが一人で見る限界だそうです。
そう考えるとその2倍の人数を一人で見ているのだから、『個別最適化はシステム的に不可能』ということになります。
そんな中で、アヤメちゃんの母性溢れる関わり方はまさに公立学校でできる精一杯。
「一人ひとりアヤメちゃんのようには見れないけど少しでも…」という言葉が行動から伝わってくるようでした。
他に気になったシーン
下駄箱の靴はなぜ揃えるのか?
対話会では『下駄箱の靴をキレイに揃える』というシーンが波紋を呼んでました。
「あんなことをしているから、旧時代のままなんだ」という厳しい言葉もありました。
でも、逆に海外からはこのシーンがとても美しい印象に映るようで「だから日本人はあんなに素晴らしいのか」と言われてたりします。
じゃあ、そもそも下駄箱の靴はなぜ揃えるのか?気になったので調べてみたのですが、これは戦時中だったからが始まりの理由。
つまり、早く逃げるために靴を揃えていたのです。
ですが、今は戦争はしていません。そうすると別な意味を持たせなくてはいけませんね。
そこで道徳の授業として靴を揃える意味を子どもたちと考えている先生がいました。
「どうして靴をそろえるのでしょうか?」
授業の最初に子どもたちに同じことを聞いたが、子どもたちの考えは変わっていた。
「靴揃えのように簡単にできることを面倒臭がってやらないと、他のこともやらなくなってしまって何か大きな失敗につながってしまうので、そうならないようにするためにも靴をきちんと揃えるんだと思います」
「靴を揃えるのは、落ち着いて生活するための『心のブレーキ』のようなものだと思います」
今日のこの授業で私が子どもたちに気づいてもらいたいことがズバリ出ると、とても気持ちがいい。それに子どもは、こちらが想像もしないようなすばらしい言葉を残してくれることもある。思わず鳥肌が立つ。
「『心のブレーキ』なんていい言葉だね」
「どうやら靴を揃えるのは、単にきれいとか、出かけるときに履きやすいとか、そういうことだけではなさそうですね」
小さなことを面倒くさがっていると、たしかに大きな災いに繋がる可能性がある。良い習慣を積み重ねていける人になってほしい。
そんな想いがそこには込められていたのかもしれません。
ただし、これは先生だけで思っていて良い時代ではなくなりました。
伝えるのではなく、子ども自身に考えさせる。
引用したロベルト先生のように授業の一環として扱ってみるのもこれからの新しい学校の形になるなって感じます。
早朝出勤は悪いことなのか
6年生の担任の先生は早朝出勤をしていました。
朝の5時、カーテンを開けて、掃除をして、授業の準備をして、5時半くらいに朝ご飯を食べている。
校長先生があとから入ってきて、「おはよう」と声をかけています。
見方によっては「ブラックな職場だ」と映るでしょう。
しかし、本当にブラックなのでしょうか?
この先生は自主的に自ら望んで5時に学校に来ています。「来い」と命令されて来ているわけではないし、同僚に「お前も来いよ」ということはありません。
あくまでも自らが望んで来ているのです。
では、ここで視点を変えて…世の中には倫理法人会というコミュニティがあります。経営者が『倫理を実践する場』です。
ですが、この倫理法人会は朝のセミナーが超有名です。なんとセミナー開始の時間は朝の6時。準備する人の集合はなんとなんと朝の5時。
それでも多くの経営者がこのセミナーに参加します。
それは『朝を制するものは経営を制す』と信じているからです。
さて、これはブラックなコミュニティでしょうか?まったく同じ内容なのに全然違って見えてこないでしょうか?
僕の知人でうつになった友人は
「うつは働き過ぎでなる人もいるけど、
時間いっぱい働けなくなってうつになる人もいるんだよ。オレみたいにさ」
と言っていました。
僕も朝4〜5時に起きて、ブログを書いています。誰かに言われたわけではありません。
これを「働き過ぎだ」と言って強制的に止めることは果たして本当にホワイトなんでしょうか?
次は一位になれるとイイね
あー、言う。つい言っちゃうよ。
運動会のかけっこに参加した子どもに向けて言った親の一言ですが、個人的には結構深く突き刺さってたりします。
この子はかけっこで「一位になりたいんだ?」と先生に聞かれて、「うん!」とうなづきます。
ですが、親は「一位じゃなくても良いじゃん。頑張ったなら何位だって良いんだよ」と言います。
かけっこの結果は3位でした。
その結果を受けて「次は一位になれるとイイね」と親は言っています。
なんだか、親ってその場限りのことばかり見て対応しているような気がしてしまって、一人の親としてかなりモヤモヤとしながらこのシーンを観てしまいました。
かけっこ前の言葉や、かけっこ後の言葉が間違っているわけではないのです。
でも、本当に子どもの気持ちを汲めていたのだろうか?
客観的に観れていたから余計に感じちゃったのかもしれないですが、言葉は正しいのに、「お子さんが求めている今欲しい言葉はそれじゃないよーー!」って感じちゃったりしました。
つい、親ってこういう風に言いがちなので、もっと子どもと話をしよう。反省。
監督の想い
イギリス人の父と日本人の母を持つ山崎エマ監督は、大阪の公立小学校を卒業後、中高はインターナショナル・スクールに通い、アメリカの大学へ進学した。ニューヨークに暮らしながら彼女は、自身の“強み”はすべて、公立小学校時代に学んだ“責任感”や“勤勉さ”などに由来していることに気づく。
「6歳児は世界のどこでも同じようだけれど、12歳になる頃には、日本の子どもは“日本人”になっている。すなわちそれは、小学校が鍵になっているのではないか」との思いを強めた彼女は、日本社会の未来を考える上でも、公立小学校を舞台に映画を撮りたいと思った。
1年間、150日、700時間(監督が現場で過ごしたのは4,000時間)に及ぶ撮影と1年を要した編集を経て完成した本作には、掃除や給食の配膳などを子どもたち自身が行う日本式教育「TOKKATSU(特活)」──いま、海外で注目が高まっている──の様子もふんだんに収められている。日本人である私たちが当たり前にやっていることも、海外から見ると驚きでいっぱいなのだ。
つまり、問題もあるけれど「日本の学校の良さにも気づいてほしい」と言うのと同時に、日本の学校の先生方の教員としての力量を尊重し、次の世代に伝え、生かさなければならないというメッセージ作品です。
みんなの学校や、夢見る小学校のように特別なドキュメンタリーではありません。
まさに当たり前の日常を観せてくれた映画でした。
小学校のHPで、感想文があるんですが、その中から一つ紹介します。
フィンランドでは、社会も子どもたちも常に変化しているので、それに合わせて学校も変わっていかなければならないという考え方が一般的です。でも、日本では“変わらないこと”がネガティヴな意味ではなく、むしろ“学校とはこういう場所である”という明確なヴィジョンがあり、それを守り続けているように感じました。
日本はフィンランドの教育素晴らしい!って言ってたりしますが、逆にフィンランドでは日本の教育素晴らしい!って言われるようになったそうです。
個人を大切にしたために自分勝手な人が増えている。それに比べて日本の周りを意識できる集団行動が評価されているとか。
まさに隣の芝生は青く見える典型的な例。
「日本人」たる根幹の形成が、学習だけでなく集団行動や生活指導を行う日本の小学校に起源を見ることができるというわけです。
だから、僕はずっと前から「日本の教育も捨てたもんじゃない」、「日本の小学校を支えていきたい」と言ってきていたのです。
この当たり前に日本人は慣れすぎている。この当たり前に感謝できないと、日本人は日本人としての良い部分ですら削ぎ落としてしまうのかもしれない。
今は学校改革が叫ばれていますが、何を残し、何を捨てるのか?
本当に大切なものはなんなのか?を考えさせてくれました。
文部科学省が掲げる日本型学校教育の強みと弱み
もう一つ、日本の教育は本当に良くないのか?
実は文部科学省では結論が出ている。教育の最前線にいる方々がさまざまな視点を通して得られたまとめです。ほぼ間違っていないだろう。
【日本型学校教育の強み】
・知・徳・体をバランス良く育む全人的な教育を重視し、国際的にも評価されていること。
・こうした全人的な教育を重視する考え方が学習活動における教師による子供たちへの働きかけに反映され、教師は、子供たちへの信頼や期待の下、その価値ある行動を見取り、子供たちに伝えることで意識付けを行うという積み重ねを通じ、その資質・能力を育成してきたこと。
・OECDのPISAにおける世界トップレベルの数学的リテラシー、読解力、科学的リテラシーなど、国際的に高い水準で子供たちの知識や思考力を育んできているほか、家庭の社会経済的背景(SES)が児童生徒の学力に影響する度合いが低く、さらに学校の授業などがそれを軽減している可能性があること。
・学習機会・学力や全人的な発達・成長を保障することに加え、人と安全・安心につながることができる居場所・セーフティネットとしての福祉的な役割も担ってきたこと。
【日本型学校教育の弱み】
・「全ての子供たちが同じことを同じように出来るようになる」ことや、全員を同じ「正解」に導くことを目指し、過度に同調圧力を高めている傾向があること。
・このような有り様は、結果として子供たちの学習の自立を損ない、子供たちを自立した学習者として十分に育むことができない場合があること。
・子供たちの行動を統制したり、管理したりする傾向が強く、形式的な伝統行事の実施等の前例踏襲による学校運営が教師の多忙化にもつながっていること。
・子供たちの幸福度は世界と比べ低く、自己肯定感や自己有用感、自ら未来を切り拓いていく力や意識を高めていく必要があること。
令和6年 12 月 24 日
以前、自分が開いていたティーチャーズアソシアというオンラインサロンで、コロンビアの日本人学校に勤務していた先生に学校をオンライン上で視察させてもらったのだが、コロンビアでは有刺鉄線、高いレンガ造りの壁で四方を囲まれていました。
これは銃社会だから。規制があったとしても模造銃で撃ってくるほどの治安の悪さ。
人と人が手を取り合い…などと言える空気ではない。油断したら次の瞬間に死ぬかもしれない。そんな張り詰めた中で教育が行われている。
でも、日本では学校に行くことが命がけということはないはずです。
子どもが不登校になって…というのは、日本の課題となっていますが、贅沢な悩みでもあると思います。だって、生きているんだもの。やり直しはいくらでも効くし、学びの場は学校だけじゃない。
僕的には学校は十分過ぎるほど頑張っている。もちろん、悪意を持った行動などは許されるべきではないけど、これ以上直せというのは正直難しいほどではないかとも思うほど。
じゃあ、今の日本の課題を収束させるにはどうしたら良いのか?
最後の感想は次の見出しに書き記します。
変わるべきなのは本当に『学校』なのか?
小学校で気になったことは、出てこなかったシーンでした。
「学校の先生以外の人が出てこない。」
まさに教育は学校にお任せになってしまっている典型例じゃないでしょうか?
親も少し登場しますが、学校から用意するように言われたこと、サポートしてほしいと頼まれてオンライン授業に一緒に出た(でも、最初だけです)こと。
それくらいしかありません。
対話会で、出た小学生の子どもたちも「先生が怖い時がある」なんて感想を出していましたが、やりたいと思った気持ちや、ヤダ!って思った気持ちを周りの大人がどれだけ汲めるかが大事。
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叱責した先生とサポートした先生の時、「サポートした先生がいなかったらゾッとする」と意見を出していた方が結構いたんですが、そのサポーターは別に他の人でも良かったし、学校に居場所がないなら、親でも学校以外の場所で話を聞いてもらったって良かったはずです。逆も然りです。
不登校や、自殺をする子が増えてしまうのは社会全体が人間としての生き方を忘れて、面倒くさいと言って繋がりを消してしまうからなのかもしれないなと感じています。
こんな話を妻にしたら、
「学校は私達が子どもの頃から全然変わってないよ。
でも、社会が変わったんだよ。
核家族になったり、子ども会がなくなったり、
何かにつけてクレーム言ったりさ。」
たしかにそうだ!
学校は小さな社会だって言うなら、この課題は学校だけのせいじゃない。社会が悪いように変化してしまったからだ。
僕がずっと研修で言い続けている「教育は社会全体で行うもの」が映画ではスッポリ抜けている。
優しいだけでは生きていけない社会にしているから、子どもたちがSOSをあげているんじゃないかな。
長い感想文にお付き合いいただきありがとうございました。
さて、ここまで書いた感想文から読めば分かるように大切なのは『みんなで教育をすること』だと感じてもらえたと思います。
その一つの手段として、僕がずっとやっているのが『教員支援』。
ここでは、『大人のロールモデルとして先生をより輝かせる』ために、地域みんなで教育を作っていく学校の環境整備や、教員自身の学びの場を作ることをしています。
だんだん、この活動も良いなって思ってもらえる人が増えたので、興味があればぜひ説明会に参加したり、メルマガ登録とかしてみてね〜。
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