アメリカ大都市でシングルマザーになった話⑤

『MAID』第8話まで観終えて。あまりにも、あまりにも、過去と現在進行形の自分の経験と重なる部分があって、心がザワザワしてしまう。

特に、主人公役のマーガレット・クアリーの演技は秀逸だと思う。実母、実父、子供の父親、どこを向いても、あらゆる方向からdagger(短剣)を突き刺されるように何度も何度も傷つけられ続ける状況。そんな場所に置かれて、たとえどんなことが起きたとしても感情が溢れ出してしまわないように、頑丈な堤防で自分の心をしっかりと覆っておくことが、せめての防御策なのだ。特に、直接的に自分を傷つけた相手に対して、あたかもロボットのように表情を変えずに事務的な対応をする様子。「自分にだけ見えている戦場」のような毎日を生きる中、目の前で無邪気に笑い遊ぶ子供の、圧倒的な柔らかさと純粋。それはまるで夢の中の一ページのようにも感じられて、同時に自分が一番リアルに感情を感じられる拠り所でもある。

絶望と希望のすさまじい対比の中に身を置いているうちに、だんだんと感情は麻痺していき、何が正しくて何が正しくないのか、誰の思考が正常で誰の思考が異常なのか分からなくなっていくのだ。その、呆然とした表情を、マーガレットはとても的確に表現していると思う。

少しずつ、また少しずつ、複雑に絡み合った状況と感情を、時間が解きほぐしていく。大丈夫かもしれない。心を開いても、安全かもしれない。そう思って自分の心を開いた瞬間に、台風のように突如として現れる混沌と恐怖。そこへ戻ってしまった相手に対する恐怖と、自分への落胆と、世界への絶望。私も、こういうパターンを何度も繰り返してきた。

このシリーズを観る中で、私は確実に自分の人生を追体験している。共依存の底知れない気味の悪さや、精神的に問題を抱える家族を持つという現実がもたらす半永久的な不安感と重圧。虐待されることがノーマルな環境で育った自分が、普通の人生、普通の愛、普通の関係性を築くことは、果たして可能なのか?その世代を越えて受け継がれていく感情のトラウマや行動パターンやサイクルを自分の代で断ち切るという決心。どれもが、重くてやりきれない。

ただ、普通に、平和に、暮らしていきたい、それだけなのに、周りの人や家族に足を引っ張られて、わけのわからない理由で怒鳴られて、平穏な生活を邪魔される。どうして自分ばかり・・・と思わざるをえない時もあるけれど、きっとそういう星のもとに生まれたのだからしょうがない、としか考えようがない。

私の元夫は、私が馬鹿みたいに真面目で柔軟性がなく感情のないロボットのようだときっと思っているだろうけれど、それは私が彼に本当の自分を見せないようにしているからだ。小さな子どものいる前で、ロボットバージョンの自分になるのは辛い。もちろん、子供が私を見ている時は笑顔を作るけれど、元夫が近くにいる時は常に身構えていなければ安心できないのだ。いつ怒鳴られるか分からないから。

それでも私は、モラハラという言葉も、ドメスティックバイオレンスという言葉も、使えないでいる。そういう言葉を使ってしまったら最後、自分自身が圧倒的な「犠牲者」になりさがってしまうような居心地の悪さと、一度は愛した相手を圧倒的な「悪者」に仕立てあげてしまうような極端さを感じているからだ。良い人間であろうと努力している人なら誰でも、コンフリクトが生じた時には「自分に非があったのかもしれない」と考えるのが普通だと思う。私も類にもれず、そういう思考回路に必ずたどり着いてしまうのだけれど、そこで「攻撃者」と「犠牲者」の二元的な構図という安易な答えに落ち着きたくないという気持ちがあるために、終わりのない迷路を今もさまよっている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?