【追悼】SING J ROYの軌跡
2022年3月28日、レゲエシンガーSING J ROYが心臓発作により亡くなった。氏は北陸福井を代表する音楽アーティストであり、全国各地の教育機関に講師として招かれ音楽授業を展開した“レゲエの先生”としても知る人は多いだろう。享年47歳。早過ぎる死……。
自分にとっては同郷の先輩にも当たり、今でも彼の歌声を聴くと涙が止まらない。このところ、ずっと彼のことを考えているが、自らの気持ちの整理をつけるためにも数々の思い出を交え簡単ではあるが彼の人生を振り返ってみたいと思う。
というのも、三十有余年にも及ぶ彼のキャリアは親族であっても知りえない事柄があまりにも多く、誰かが文章にまとめておく必要性も感じたからだ。
これから、新たにSING J ROYの残した作品に触れる人のためにも何かのガイドになってもらえれば幸いだ。
記事はその都度加筆・修正していく予定なので諸先輩方からの情報提供もお待ちしている。
90年代
レゲエとの出会い
SING J ROYは1974年7月4日、福井県福井市にて生を受ける。
幼い頃から病弱で、持病のぜん息により“何度も死にかけた”とぼくはよく聞かされたものだ。
レゲエとの出会いは15歳のとき。近所でスケボーをやっていたら声をかけられ、レゲエバーに行ったのがきっかけだと言う。
そのレゲエバーを経営していたのが『GOROLYN』。レゲエサウンドクルー“EXSEED”を率い、北陸ではもっとも早い段階からサウンドシステムを作ったり、アーティストのDUBを録ったり、ということを行っていた人物である。
また、『JUNGLE C.N.P. JAH』名義でコンピ『日本全国御当地ラップ』にも参加。90年代初頭にメジャーデビューも果たしている。
時あたかもマキシ・プリーストが『CLOSE TO YOU』でレゲエアーティストとして初の全米一位を獲得し、『ジャパンスプラッシュ』が数万人を動員した90年代前半。第二次レゲエブームの熱に浮かされてこの音楽の門を叩いた他の多くの若者同様、SING J ROYも10代にしてレゲエアーティストとしてのキャリアをスタートさせる。当時の芸名は『ハンバーグマン』。
ZION HIGHとの出会い。ラスタカルチャーへの傾倒。CDデビュー。
『ハンバーグマン』として歌い始め、V.I.P主催のコンテスト(※優勝シバヤンキー、準優勝は同郷の音楽仲間でもあるKAANA)などにも参戦していたSING J ROYであるが、90年代半ばにあるレゲエ・バンドと運命的な出会いを果たす。
そのバンドというのが、『ZION HIGH PLAYERS』。一般的なレゲエ・リスナーの中にはPAPA U-Geeの昔のバックバンド 、という認知の方も居るかも知れないが、前身の『MOUNTAIN HIGH』時代には伝説のヒッピーフェス『いのちの祭り』にも出演した日本最古のルーツ・レゲエバンドのひとつ。また、メンバー全員がラスタマンでもあった。
“RASTA”というカルチャーとSING J ROYは相性が良かったらしく、戒律に従い菜食中心の“ヴィーガン”的な食生活を試みたところ、幼い頃から苦しめられてきたぜん息が完治。
以降ZION HIGHと寝食をともにするようになり、98年には彼らが根城とした長野ROOTS STUDIOよりリリースされた『ジャパン ラブ レゲエ ミュージック vol.2』に“SHIN'G-ROY”名義で参加。初のCDデビューを果たす。
また、ZION HIGHのメンバーの中でもギターのトットさん(STICKY-T)とは特に仲が良く、90年代末は一緒に名古屋のカフェ『マタンゴ』に居候し共同生活を送るようになる。
この頃の彼の歌声はMIXテープ『名古屋だがや』で聴くことができる。10代のぼくが大好きだった作品だ。
『名古屋だがや』は当時の東海地方のレゲエシーンを代表するアーティストほとんどが参加。また、“シーモネーター”時代のSEAMOなども参加しており、現在もオークションでは高額で取引されている。
SPORTY5。メジャーデビュー。
この頃の彼の活動で特に思い出深いのが『SPORTY5』である。
恵比寿みるくで始まったPARTY『BORN TRASH』をきっかけに生まれた全員福井県出身のHIP HOPユニットで、SING J ROYもゆいいつのレゲエDeeJayとして参加。他メンバーには『DESPERADO』として関西日本語ラップシーンの礎を築いたKENTWILD、現在も福井で活動するSKE13、04年DMC世界チャンピオンのDJ AKAKABEなどが居る。
忘れようにも忘れられない、15歳だったぼくが生まれて初めて行ったHIP HOPのイベントで歌っていた人たちである。
そして、『SPORTY5』としてのSING J ROYの活動は同じく『BORN TRASH』に出演していたスケボーキングの目に留まり、彼らの楽曲に“SHIN'G-ROY from.SPORTY5”名義で参加。メジャーデビューする。
この曲が出た当時、SING J ROYは地元・福井のCDショップ『ハートランド』で時折バイトしていたのだが(※『ハートランド』はインディーズ系に強いお店で、CDだけでなくレゲエやヒップホップのグッズやmixテープも豊富に取り扱っていた)、ある日ぼくが制服姿で店員と喋っていると
“あのー、私の息子が入ってるCDが欲しくて……”
と、彼のお母さんがスケボーキングのCDを買いに来たことを思い出す。懐かしすぎる。
そして、ぼくもこの後ハートランドでSING J ROYと初対面を果たすことになる。
当時HIP HOPが好きでラッパーになりたかったぼくは「あっ、今日はSPORTY5の人が居る!」と、彼に話しかけたのだが
「君もレゲエが好きなの? おれたちのイベントに遊びに来ねや! 歌ってみねや!」
と、彼に言われ、言われるままに遊びに行ったところ(レゲエなんかボブマーリーぐらいしか知らんかった)そこで初めてMICを握ることになり、芸名もつけられる。
まさか、それから20年以上レゲエの世界に居続けるなんて思わなかったし、ずっと「ソロバン」と呼ばれ続けることになるとは思わなかった。
2000年代
苦悩の日々
2000年代前半のSING J ROYはまさに「苦悩と修行の日々」であった。
HIP HOPユニット『SPORTY5』での活動や、スケボーキングにfeat.されてのメジャーデビューなどトピックはあったものの、本業のレゲエフィールドでは全く評価が追いついておらず、それどころか“シンジローは有名になるためにレゲエを捨てた!”という声すら裏では囁かれていた。
そして、右肩上がりに加速していく2000年代のレゲエブームの中で「自分だけが取り残されている」ように彼が感じていたのもまた事実である。
いつも一緒にZION HIGHで歌っているPAPA U-GeeはMIGHTY CROWNの先輩で『横浜レゲエ祭』の常連。クラブから野外ステージ、野球場へとネズミ算的にその規模を拡大させていく当時の『レゲエ祭』に、PAPA U-Geeのバックコーラスで参加したことなどもあったが、そこで彼が「いつかは俺も……」と思っていたであろうことは想像に難くない。
また、当時は同じ北陸エリアである富山のシバキマン・チンピラーがカエルスタジオの『ラバダブ99』への参加をきっかけに急速に勢いを増していた時期で、この頃の彼らはコンピ『RODEO CAAN DONE』への参加でメジャーデビューも果たしている(※MINMI『Perfect Vision』やKeycoの『SPIRAL SQUALL』を制作した上代さん監修の作品)。また、シバキマンは当時のレゲエ界での“年間ベスト”として知られたDJ BANAの『DI VIBES』にも『SWEEPER ’02』で参加。
この時代の“北陸レゲエ代表”の座を不動のものとする。
この頃、しんじろうさんの車に乗せてもらって県外に行った帰り道、この二人の話題になり
“おれの方が先に始めたのに、あいつらの方が有名になっつんたなぁ……”
と、なんとも悔しそうに彼がポロっともらしたことは今でも忘れられない。
ちょうど2003〜04年ぐらいの話で、第三次レゲエブームが本格的に始まり、東の『横浜レゲエ祭』と西の『HIGHEST MOUNTAIN』という東西二大フェスが万単位の観客動員数を記録するようになっていた頃。
ステージネームは『SHIN'G-ROY』を経て『G-ROY』になり、現在の『SING J ROY』になっていた。
ZION HIGH脱退。福井への帰還。
そんな“苦悩の2000年代前半”のさなか、ある「事件」が起こる。
とうとうZION HIGHでSING J ROYの1stアルバムを出すことが本格的に決まり、PAPA U-Geeも交えてバンドメンバーみんなでジャマイカレコーディングに出発することになったその直前、SING J ROYがぜん息の発作を起こし緊急入院してしまったのだ(!!)。
レコーディングの段取りはすべて狂いメンバーのジャマイカ行きのチケットも全てパーに。
ジュンペイさん(※ZION HIGHのリーダーで、著名なギタリスト小林ようたの叔父。小林ようたもZION HIGHでギターを弾いていたことがある)は激怒し、SING J ROYは脱退することに。事実上の“クビ”である。
トットさんは“病気だからしょうがない……”とかばっていたのだが、自分もSING J ROYの性格を知っているだけに内心はジュンペイさんの判断が正しい、と思わざるを得なかった。下積み期間が長すぎたため計り知れないプレッシャーが彼を襲ったのだろう。
ZION HIGHに帯同し全国を転々とする日々は思わぬ形で終わりを告げ、SING J ROYは故郷福井県に本格的に腰を据え音楽活動を行うことを余儀なくされる。
ちょうど、年齢は30代に突入した頃で、長男はまだ保育園児。
ふるさと福井で“背水の陣”からの再出発であった。
FORM A LINE。SUNSETとの出会い。1st アルバムリリース。
しかし、福井で再スタートを切ってからのSING J ROYの快進撃には目を見はるものがあった。やはり根がMなので追い詰められると細胞が燃えるのであろうか?
盟友SKE13との『まこっせまこっさ』や『ジャンケンポンの歌』、早口の『ラガラガロン』など、このころ彼が現場をBUSSらしていた歌にはどれも傑作が多く、どこかのサウンドが録ったDUBぐらいしか音源が残っていないのが悔やまれる。
そして、SING J ROYは『JAM FORCE』や『FIRST CUT』といった中長期のジャマイカ修行から福井に戻ってきたサウンド勢と合流を果たし、彼らとともにイベントを企画したり、車に相乗りして県外営業に繰り出すようになる。
少しずつだが“北陸の福井にやばい奴らがいる!!”というポジティブな噂が全国に広まるようになっていった。
今でも、SING J ROYがもっともアーティストとして脂の乗っていた時期は、実はこの頃ではなかったかとぼくは思っている。
そして、この時期のSING J ROYの人生のターニングポイントとなる、ある作品のリリースが決定する。それこそが大御所アーティスト・PAPA Bのミニアルバム『Scorcher』に収録された『FORM A LINE』であり、窮地に追い詰められていた彼に一筋の光が差した瞬間であった。
当時のレゲエ界隈では“知る人ぞ知る”という認知でしかなかったSING J ROYが、何故いきなりPAPA Bと!?となったレゲエリスナーは多かったと記憶しているが(しかも形態は東芝EMIからのメジャーリリースである!)、実はボンさんはしんじろうさんの師匠格に当たるゴローさん(GOROLYN)とはずっとNY修行時代を共にした人。遠く北海道から福井にも何度も何度も歌いに来てくれたアーティストだ(ぼくが生まれて初めて行った福井のレゲエのダンスのS.GUESTもボンさんだった)。
“何故いきなり!?”ではなく永年の自然なリンクから生まれた作品で、ボンさんもずっとしんじろうさんのことを気にかけてくれていたのである……。
そして『FORM A LINE』のリリースで勢いづいたSING J ROYは、あるレゲエサウンドから“一緒に作品を作らないか”とオファーを受ける。
そのサウンドとは東京の『SUNSET THE PLATINUM SOUND』。当時、国内シーンでも五指に入る大物中の大物であった。
アーティストのプロデュースではMIGHTY CROWNやRED SPIDERに後れをとっていたSUNSETにとって、自分たちと年齢も近く“即戦力”となるSING J ROYという存在はまさに求めていた人材で、このタッグからは『GOOD TIME』や『NO MORE WAR』といった、日本語レゲエ史に残る名曲が生まれている。
SUNSET全面プロデュースのもと、SING J ROYは前述の二曲が収録された、自身名義では“初”となる1stミニアルバム『GOOD TIME』をリリースする。
時は2007年。前年には『横浜レゲエ祭』が横浜スタジアムで開催され、驚異の3万人を動員。大阪の『HIGHEST MOUNTAIN』も舞洲の特設野外会場で開催され2万5千人を動員し、まさに第三次レゲエブームは最高潮に達しようとしていた……。
10代にしてMICを握り、20年近い紆余曲折はあったものの、福井の「遅れてきたルーキー」は、この時ようやく時代に“間に合った”のである!!!
『ほやほや』と『だんねーざ』。
SUNSETという強力なパートナーを得たSING J ROYが全国のレゲエシーンにその名を轟かせていく中で、地元・福井県ではあるユニークな曲が注目を集め出していた。
そう、のちに自身の代表曲のひとつとなる『ほやほや』である。
リリック全てを福井弁で書き下ろし、福井県の四季折々の情景を歌ったこの実験的な楽曲は、FIRST CUTのTEXが自身のスタジオで録ったまだプリプロ段階のものを、当時バイトしていた地元のイタリアンレストランで流したところ問い合わせが殺到。あれよあれよという間に県内で噂が広まっていき、最終的にはジャマイカレコーディングを敢行してのシングルCDリリースも決定。SING J ROYはこの作品のバズをきっかけに『ふくいブランド大使』に任命される。
そして『ほやほや』のHITを受け、“ほやほや第二弾”となる『だんねーざ』も制作される。
これは、SING J ROY自身が楽曲のトラックメイキングも手がけた意欲作であるが、こちらも県内でヒット!! 今でも、地元のスーパーやショッピングセンターのお土産売り場では、延々この二曲がループでかかってるようなお店すら存在する。
インタビューなどではこのふたつの楽曲を制作した経緯について
“福井の人たちも今じゃみんな自分らの方言を忘れている。だから作った”
という旨の発言が時おり見受けられるが、実はこれは彼自身が言われていたことなのである。
今でも覚えているが、福井でZION HIGHのライブをやった時のこと。電話していたしんじろうさんがジュンペイさんに
「何だお前、福井の人間で福井に居るのに電話で標準語なんか喋りやがって! 都会に毒されやがって! バカ者が!!」
という、何とも理不尽な理由で怒られている。
当時19歳だったぼくからしても“なんでウチの先輩そんなことで怒られんとあかんのやろ……”と憤りを感じたものだったが(もちろんジュンペイさんが「自らのルーツを誇る」というRASTA思想にもとづいて言っているのは分かるのだが)彼自身はしっかりそれを覚えていて、こういう形で作品として「昇華」したのであった!!
そして、ぼくも福井県出身者なので分かるが、この二曲が県内で跳ねたのにはやはり理由があると思う。
というのも、「福井」というのはもの凄く田舎で、だいたい他府県の人と会話しててもまともに場所を言われたことがない。ほとんど「東北でしょ?」とか(そりゃ“福島”や……)「九州でしょ?」とか(そりゃ“福岡”や……)言われる。
47都道府県でゆいいつイオンがないのも福井ぐらい。
喋る言葉も独特なズーズー弁で(福井弁に似た方言は本当に全然ないと思う)、これも“恥ずかしい”という人は多い。
だから、SING J ROYがもはやお爺ちゃんやお婆ちゃんしか喋らないようなコッテコテの福井弁で地元讃歌を歌ったとき、みんな口では
“なんじゃこれ!?”
“ひってウケる曲流れてきたぞ(笑)”
と言いつつも、心の中では何とも誇らしかったのではないだろうか。
福井のご当地スターに
『ほやほや』『だんねーざ』のバズは、この後思わぬ展開を見せる。
何と、SING J ROYが“音楽を通じて郷土愛を教える特別講師”として県内の教育機関に招聘されるようになったのだ(!!!)。
これは、スペースシャワーTVで放送されていたハリー杉山の番組内企画としてスタートしたものだったが、以降も活動は拡大していき、最終的にはSING J ROYは全国を“レゲエの先生”として行脚するようになる。
そして、SING J ROYは“福井のご当地スター”としての色彩を日に日に増していった。
※上記の映像は2011年、越前市北日野小学校でSING J ROYを招いて児童らが『だんねーざ』を歌ったときのもの。動画の最後に“お礼の言葉”を述べる女子小学生は、現在プロバレー選手として日立Astemoリヴァーレに所属する上坂瑠子さん。
1stアルバムリリース。夢の終わり。
2009年。激動の2000年代最後の年はSING J ROY念願の1stフルアルバム『DeeJay Daddy』がリリースされた年であった。
この頃の彼は県内での思わぬバズなどもあり、公私ともに充実していた時期で、二人目のお子さんが誕生したのもちょうどこの年だったと思う。
当時はSUNSETに所属し給料制だったのだが、営業先でのDUBのレコーディングのギャラは全てSING J ROYが貰っていいことになっていたから、当時一本●万だったことを考えるとかなりの額を稼いだと思う。恐らくそのアーティスト人生においてもっとも潤っていた時期ではないだろうか?
アルバム『DeeJay Daddy』を引っさげての全国クラブサーキットは千秋楽を地元福井で迎え、フルバンドを投入しての自身初のワンマンライブという形で結実する。まさに自身の“集大成”と言って過言ではない感動的なステージであったことを、昨日のことのように思い出す!!
しかし、いい時は長く続かない。
この時点で2000年代初頭から続いた第三次レゲエブームは収束し始めており、“レゲエ”に関わるほぼすべての人間はその活動を縮小せざるを得なくなった(SING J ROYは福井県内でのバズがあったので影響が見えづらかった……)。
かくいうぼく自身もこの頃音楽活動にはひと区切りつけている。
そしてそれは、あのSUNSETと言えど例外ではなかった。
SING J ROYは『DeeJay Daddy』を最後にアーティスト契約を破棄され、以降は仲間たちとレーベルを立ち上げそこから作品を発表していくこととなる。
SUNSET自身もその数年後に“二人組サウンド”としての活動には幕を下ろし、以降KILLA BAMBAM氏のソロ活動などはあったものの、2010年代半ばにはひっそりと表舞台からは姿を消す。
時の流れは残酷なまでの大きなうねりとなって、皆を呑み込んでいった。
2010年代
『感謝』。
しかし、“ブーム”が過ぎ去ろうとも、SUNSETと袂を分かつことになっても、彼は止まるわけにはいかなかった。
迎えた2010年。10年代最初の年に、SING J ROYは仲間たちと興した自主レーベル『Danne the records』より初のワンウェイアルバム『MY TOWN Riddim』をリリース。これは、SING J ROY自身がトラックも制作したもので、中でも関西の実力派アーティスト・PETER MANを迎えた自身の楽曲『感謝』がスマッシュ・ヒットとなる。
“感謝〜♪”
と、MVで地元・福井の大自然に包まれ、手を合わせながら高らかに歌う彼の胸には、このときどんな思いが去来していたのであろうか。
今となっては知るよしもないが、ただひとつ
“きっとまた、状況は良くなる!!”
と思っていたことは確かだろう。今までもずっと、そう思って乗り越えてきたのだから。
『ワカサノタカラ』論文発表。
2014年、文化人類学者の神本秀爾氏が一連の福井県でのSING J ROYの講師としての活動をまとめた論文『地方で根付くダンスホール・レゲエーーまちづくりに向けて制作された「ワカサノタカラ」の事例』を学会に提出。
この出来事をきっかけにSING J ROYの講師活動は本格化し、以降は全国の教育機関を「レゲエの先生」として巡るようになる。
神本氏は京都大学在学時に博士号を取得するために選んだ論文のテーマも“ジャマイカのラスタ文化”だったという筋金入り。2017年にはその際提出された論文に大幅な加筆・修正を加える形で『レゲエという実践: ラスタファーライの文化人類学』という一冊の本も上梓される。
同書の中でSING J ROYは『ラスタファーライを介した地域への愛着とまちづくり』という章で総20ページ(!)に渡って大特集されており、興味の湧いた方は読んでみることをお勧めしたい。町の図書館などにも置いてあります!
なお神本氏とSING J ROYの友情は晩年まで続き、つい最近まで共同で行ってきた楽曲制作をまとめた本を出そう、というプロジェクトも進行中であった。
生前、故人に語りつくせぬサポートを行ってくれたことに改めて感謝したい。
しんじろうさんが亡くなった時、ぼくがまっさきに電話した相手も神本さんである。
空白の10年代
10年代中盤以降のSING J ROYは全国をライブに講師に飛び回り、かつてのレゲエブームはすっかり落ち着いていたが多忙な日々を過ごしていた。その生涯で訪問した学校は72校にものぼり、“福井の文化人”として推しも推されぬ立場となる。
わずか47年という短い人生であったが、その日々は実り多いものだったのではないだろうか!!
……本来であればもっともっと文章を書き連ねていかねばならないのだが、ぼくの2010年代におけるSING J ROYに関する記憶は残念ながらほとんど欠落している。理由はいろいろとあるが、ひとつはこの頃のアーティストとしてのスタンスの変化にある。
自分が憧れたしんじろうさんはあくまで“ストリートの面白くて格好いいお兄ちゃん”。
福井の田舎の名士となり、黒板の前に立って“先生、先生”と呼ばれてる人物ではなかった。
何だかSING J ROYが遠くに行ってしまったような気がした。インスタグラムに彼が採り上げられた新聞記事の写真が載るたびその思いは増した。
……それだけである。
けれど、何年かに一度見る彼のステージングはやはり凄く、「この人に憧れておれもMICを握ったんだな」と思うと何とも誇らしいものがあった。
SING J ROYは典型的な現場の叩き上げ。
歌が巧いアーティストはごまんと居るが、彼は誰より声量があり声がよく通るアーティストで、ラバダブでは最初の「ヨゥ!」だけで他を圧倒した。
また、合間のMCや客いじりも巧みで、一番歳上のあの人がいつも一番現場を盛り上げて帰った。それはまるでひとつの職人芸のようであった。
直近では昨年、自分の住む大阪にライブで来た時のことなど忘れられない。
ギター一本抱えて歌う姿はまるで熟達した旅芸人のようで、『だんねーざ』を歌っている時はまるで昔の福井に戻ったような、早々に逝ってしまったよっちんさん(※セレクトショップFOOT BEAT店主)やゴローさん、ぼくもあの人もお世話になった福井の先輩たちもひょっこりその辺から出てくるんじゃないか……そんな錯覚すら覚えた。不思議な体験だった。
まさかあれが彼の歌を聴く最後の瞬間になってしまったとは未だに信じられない。
2020年代
闇夜の一等星
2022年3月28日、心臓発作により彼は逝った。
あまりにも突然すぎる死。
誰より“現場”にプライドを持っていたアーティストだけにコロナでその場を奪われ生きる気力を失ってしまったのだろうか?
それとも、ずっと走り続けてきた男が思わぬ空白の時間を与えられ体のネジが緩んでしまったのだろうか?
それは分からない。今はただ故人の冥福を祈るのみである。
今回、葬儀に参列するためコロナ禍でずっと帰れてなかった福井に久々に帰郷した。
いつも思うが大阪から向かうと岐阜あたりからポツポツと街の灯りが消えはじめ、福井に着く頃には「真っ暗!」になる。
まるで街全体が深い海の底に沈んだようだ……。
そんな場所で育ったからこそ、マイクを握り真夜中のクラブで躍動する先輩たちは夜空の星のようにキラキラ光って見えた。中でも、SING J ROYはひときわ輝く一等星だった。
その星の光に導かれ、16歳だったぼくもこのカルチャーに出会い、マイクを握り歌い出した。
文字通り人生を変えられた瞬間だった。
そして、20年以上経った今もまだ、ここにいる。
生涯忘れないだろう。
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