失落
それは、実に絶望的なことだと思う。
ひょんなことから、何かを失くすことは残酷なことだと、そう知ったから。
大切な本を失くした時には、心を満たしていたものがひとつ欠けて、色を霞ませる。
お菓子の袋は、中身をぜんぶ食べてしまえばそこにある意味を失くしてごみになる。
お金をたくさん握った日には歯止めが効かなくなって、自分の欲を無意識に晒すようになる。そうしてそのうち、本質を忘れる。
何か大切な気持ちを失くした時には、そこにぽっかりと穴があいて、冷たく刺さるような風が吹き抜ける。
明るさを失くした時には、月だけがぼんやりと浮かぶ夜を眺めるまま、帰り方が分からなくなる。
暗闇を失くした時には、それと一緒に隠れるための場所も失くして、ただ人の目から逃げるように涙を流す。
音を失くした時には、入り込めていた隙間が急に狭くなって、ただ呆然と立ち尽くす。
失くすことで得るものがある、なんて聞くこともあるけれど、あんなのは嘘だと思う。
いや、一概に嘘だとも言えないけど、もし得るものがあっても多分それはいいものなんかじゃないと思う。
失くしているんだから、確実に自分からひとつ、何かが減っている。
減ったものがわかることもあれば、わからないこともある。
失くすことは苦しい。
苦しみくらいは得られるかもしれない。ほんとは全然いらないけど。
消えてほしくなかったものから消えていく気がするから、どうかずっとこのままで、なんて思いがいつも片隅でうずくまるようにそこにいる。
何もなくならなかったらそれはちょっと不便なことがあるかもしれないけど、この世界には圧倒的に失くしたくない、失くさなくていいものが多い。
眠れないまま星を眺めながら無駄にも似た時間を作ったあの時の明け方も、
名前も分からないけど知らぬ間に育って知らぬ間に消えた道端の花も、
食べたことのないものを初めて食べるまでのあれってどんなのなんだろうっていう気持ちも、
ほんとうは、失くしたくなかった。
過ぎ去ってほしくない時間で、できるだけずっとここにいてほしい時間で、感情だった。
所々に傷跡を残したものたちにどうにか戻ってきてほしくても、後戻りのきもちを知ってほしくても、絶対に知ってくれることはない。
いつか失くなるもので、ひとときはその全てを知りたいと思っていたものだったとしても、それを知ってしまえばまたここへ来て最初のように透明なままでいてほしいと縋るばかり。
また来てくれるなんて、そんなことがあるわけないとは分かっている。
何度願ったってほしいものは手に入らないし、いらないものは消えないし、失くしたくないものばかりを失くす。
私の知っている限りでは、そんなふうにできている。
失くしたものでも忘れられたら楽な話だけど、忘れられないものだってある。自分が忘れることを拒否している。
きっと、忘れてはいけないのだと思う。
失くしたものを忘れることは、命が燃え尽きた時の話と同じように、それを二度失くすことと等しいのではないか。
失くしてきたものは数え切れないほどある。
とてつもなく綺麗なものも、お世辞だとしても綺麗だとは言えないものも、思い出すたびに何度だって失くして記憶から消したいと思うものも。
気がついたらいくつだって私の隣から離れていって、凍えるような現実を突きつけられた。
でも、これは決して絶望の唄ではない。
日々何かを失くし続ける自分に向き合うため、
その終わりを瞳を閉じず最後まで見つめる強さを知るため、
失くすことは痛いことだといつまでも忘れないでいるため、
本当のことを捨てるなと言い聞かせるため。
そのために綴った言葉たち。
ポジティブに終わらなくていい。
死んだような、泥沼のような終わりでもいいから、決して忘れてはいけない失ったものたちのことを心に重く残しておきたい。
それがいつか自分にとっての重荷となっても、過去の中には確実に残っているものたちだから。
失くすことは残酷なこと。
ひとつも間違いのないその事実を、私は忘れたくない。