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留学記 #3

「“bloodborne”は終わりましたか?」

数年前にプレイしましたがまだラスボスは倒していません、と答えようとした。一瞬のあいだ逡巡する。おそらくここでの”bloodborne“は、私の考えている”bloodborne“ではないはずだ。まず第一に、この質問は出勤初日に上司から飛んできたものである。”bloodborne“がフロムソフトウェアのアクションRPGのことを言っているのだとしたら、どう考えても場にそぐわない。いきなり私にゲーム遍歴のことは聞かないだろう。ちなみに渡米前から伝えられていた、出勤初日に必ずやるべきことリストは以下の通り。

その一.IDカードを取得すること
その二.資格証明書に記入すること
その三.管理局に立ち寄って情報を登録すること
その四.安全トレーニングプログラムを受講すること

この質問は、その四.安全トレーニングの受講方法を教わる場でのひとことだった。瞬間的に私は獣を切り裂くマゾゲーと安全トレーニングとの共通点を探したが、結論として短時間で答えを出すのは難しいと判断。ソレハナンデスカ、と聞き返す。

帰ってきた説明によると、bloodborneは講習のひとつを指していた。つまりbloodborneは血液由来の、という意味で、そこから転じて血液感染性の、そこからさらに転じて”血液を介した感染や針刺し事故による感染を防止するための安全講習の俗称“のことだった。すこし転じ過ぎだろう。

過去に録画したbloodborneでの見事なプレイ

その後にも“思ったより転じますね”と声を掛けたくなることがいくつかあった。例えば、怒涛の勤務一日目から二週間ほどたったある日、“決めなければならないことがあるので”との旨で開かれた臨時ミーティングでのことだ。最初に上司が言った。

「今日は皇帝(Czar)を決めます。」

まさか、臨時ミーティングで皇帝を決めるのか。これは一大行事である。もちろん私だってバカではないので、ここでのCzarが文字通りのシーザー(カエサル)ではなく、これが転じて皇帝、さらに転じて組織内の新しい長、のようなものを指すことは推測できた。ただそれにしては、みんなの盛り上がりが足りないようにもみえる。ゲームオブスローンズみたいな緊張感もない。上司は続けた。

「それではまず、部屋皇帝と装備皇帝を決めます。」

部屋皇帝と装備皇帝。さらに細かく転じてきた。部屋皇帝、これには井の中の蛙のようなニュアンスが感じられる。そして映画好きならば、装備皇帝をマッドマックス 怒りのデスロードに出てくる武器将軍のようなものと捉えるかもしれない。ちなみに武器将軍は英語で“Bullet Farmer”。弾丸牧場である。

この後、部屋皇帝はさらにそれぞれの部屋毎に、装備皇帝はそれぞれの機器毎に皇帝たちが決められ、それぞれがちゃんと部屋と機器のメンテナンスをしていくように、との念押しのうえミーティングは終了した。つまり皇帝は“係”という意味だった。皇帝が転じて係員になるのがアメリカである。カエサルは遠い未来のアメリカで、自分の名前が”係員“という意味になっていることを知ったらそれなりに腹を立てるのではないだろうか。反対に係員のことをカエサルと言うのは、些か大仰すぎる。

いやはやこれが英語か。私は学生の頃、英語という教科がセミの寄生虫(セミヤドリガ)と同じくらい嫌いだったので、未だにアメリカに来た事実をうまく信じることができていない。そんな私でも、英語が教科ではなくコミュニケーションであることにようやく気付いてきたのも確かだ。

もう一回言ってくれませんか、と何回も聞くのが気まずいこともある。ただ聞き取れた単語をピックアップしてその単語はどういう意味ですか、と聞き返したり、聞き取れた単語から予測してあなたの言いたいことはこういうことですか、と聞いてみたり、コミュニケーションと捉えれば無限にやり方があると。

アメリカでの生活は英語の難しさを改めて認識することになった。同時に、当番のことを皇帝という面白さも知った。考えてみれば当たり前のことだが、日本語がそうであるように、英語にも深みのある表現がたくさんあるということなのだ。受験勉強の苦痛が強すぎて、まったく気づくことができなかった。

使う機会が滅多にないので覚える気がしなかったというのもある。だがここでは覚えた表現を実際に使ってみる機会がある。その点は評価すべきではないか。

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