『生まれてすいません』と、憂うべきなのか? 海外スケールをディスられて、、、
なんだか最近モヤモヤしている。
それはFB上でインフルエンサー的な人が書いた投稿が元である。
どうも海外組の人(在外日本人)や海外に遊びに行く人の投稿をはっきりディスっていた。あれ〜、こういう人であったのかと、まずは驚いた。確かその人も仕事で海外へ来たりしていたのは私の記憶の間違いではないと思う。
自分は良いけど、お前らはやるな!
なんで日本でがんばらない。なんで、お前らは外へ行くと。日常を大切にせいよ、地べたと繋がれ!
海外のスケールでやれることがそんなにいいことか、そんな自慢は見たくも聞きたくも読みたくもないぞ、とその人はペラペラペラペラ思いの丈を文章にこれでもかとぶつけていた。
また、自慢は嫌だ。自己顕示欲はするなとも怒っていたが、その人自体がいつも大きく自分の仕事の宣伝をしている。クラファンもしている。自分はいいのか?
日本で同じことをするのには問題がないという考えなのか? 自分の宣伝や自慢に余念がないがそれは、いいのか? 自分を顧みない事、寒々しい。
あのコロナ期の規制のせいで、海外旅行ができなくてうずうずしていた人たちが、嬉しくなり最近、それらを投稿するのは普通のことだと思う。
ただ彼のディスリに賛同する人の数も非常に多かくそれにも驚いた。日本人は日本の日常に繋がっていること大切とか、日本で頑張ればいいんです。海外で何を食べたとかダメダメ(料理も?)、というようなコメントだ。
まぁ、そういう傾向に日本があるのは知っていたけど、Twitterをあまりしてない私にとっては、初めてそういう文章をきちんと見た。
それを読んで、確かに昨今の日本の状況では、海外で何かしら認められた人たちの功績は、私たち在外は知っていても、日本のマスコミは全く報道しない意味を、合点した。
多くの国民がそれを望んでないのだから。
ただ、その功績もノーベル賞レベルまで行くと、国籍が既に変わっていても日本人と報道されるような不思議現象が毎回起きてるのはご存知の通り。
そのような大きな功績ではない、おそらく彼の周りのものを、海外組よ、空気を読め、と彼はディスっているのだった。
海外組は何か(特に仕事上)良いことがあっても謙虚にしていろ、黙れということだ。
会社に行けと命令された駐在は良し。でも自分から外に出ていった人は、ダメなのであろう、彼の中では。
なんか聞いたことがあると思ったら、この思想は日本の政治家が多く持っている考えだった。やはりやはりなんのかんのといって、政治家は国民の意識を反映していると、ちらりと思う。
お猿のボスは吠える。『日常が!』
それにしても、肝が、そして彼の言うところのスケールが小さい男だ、小さすぎないか?
時間をかけて書かれたその長い文章をじっくり読むと、特に海外在住の人の投稿を、自慢していると決めつけてるだけではなく、マウントを取るなとも怒っている。あれ〜?
それって、私や、友人たちのこと? 彼と似たような職種についているし。
海外の日常を持っていて、彼の言うところの投稿を普通にしてる、彼の言うマウントをしている仲間にみんな入るような……。
あわわ〜。
私を含め誰もマウント取るために投稿していない。(と思う)
日常を大切にしろ、海外へ行けない弱者を見れ〜、と長々説教を垂れているが、そのディスられた海外在住組にとっての日常は海外である。
家族こちらにもいるんですが。仕事もこちらでしているのですが。
日本へ行くことの方が、非日常なくらい、こちらに長いのですが。
う〜ん。そういう背景は見えないらしい。そして今さら、海外と日本を分けて考えるという思考回路、困ったものである。
何かいいことが起きた時に、嬉しい! こんなことがありましたと、投稿するのはいつから悪いことになったのか? 誰でもそういう自由は許されるべきじゃないのだろうか? いつまで海外組は謙遜しないといけないのだろうか?
許されるのは日本での料理の投稿だけなのか? 実は在外からしたら、美味しそうな日本食が上がるたびに、ため息が出るし、たくさんのフードアレルギーを持つ私からしたら、特にデザート系の投稿は、あっ、痛い! ではある。
でも、それらは、投稿する人の勝手だと私は思う。
喜んでそれを受け入れる。あるいは嫌いな食べ物が画面上に飛び込んできても、ただただ他のページに変えるだけである。そこまで怒ることなのだろうか? 全ての人に気を遣っていたら、何も投稿できない。
はっきり言って人の投稿がその方の気に障り、見たくないなら、見なければいいだけである。
いつでも人の顔色を伺わなくてはいけなかったら、やりたいことの一つもできない。
「生きてきてすいません」の世界観を、私たち私たち海外在住に持てといわれても、それは無理である。
出る釘は打たれるのは世界共通(わかるかな?)で、それを覚悟で上手くいったこと、見たこと聞いたことの(自慢)投稿を誰でもがしているわけで、むしろ頑張ってる人を応援する気にはならないのだろうか?
スケールって、人それぞれの持つ運命、そしてその人の度量とか、努力、背景とか色々あって決まってくる。他の人をそうそう自分のスケール(物差し)で測っていいのだろうか?
ちなみにスケールはラテン語の「階段」」が語源。
「目盛り」とか「評価基準」「はかり」としてよく使われる言葉である。
「To scale」だと、一定の比率に縮小してという意味。
「Scale up」だと、率に応じて拡大する。高めるという意味になる。
とにかく、人それぞれスケールは違う。
その人が存在するだけで、自慢と取られてしまう場合も、
たくさんある。生まれながらの美貌とか、お金を背景に生きてきている人。
でも「生まれてすいません」と思っていいのは気候テロリストだけでいいのではと思う。(人間生きているだけで、CO2を吐いているのだから)
後の人は別に、謝る必要はないのである。
さて、私、もうこの方の意見は無視して、完璧オランダの日常生活を、どんどんいろいろなところにアップしようと思う。残念ながら、彼の意見は私には届かない。
自分は自分である。どうSNSを利用するのかはその人次第。他人をディスる投稿は、自分を卑しめるだけである。自分も気をつけたい。