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君たちはどう生きるか

酷評がたくさん目につくが・・・わたしはグッときた。

★途中のーーーのところからネタバレあり★

82歳の宮崎駿監督に見えている世界はきっとこの映画よりももっと哲学的で、悟りの境地の近くにあり、達観した真理を見据えていて、その下の世代にはあまりにも入りくんだものなのだろうが、

それをもちろん分かっているであろう監督が、全力で意識を若返らせて私たちにも伝わるように、愛と優しさを込めて産み出してくれた、遺言的な作品のように感じた。

すでにみた人が多々レビューに書いているとおり、宮崎ファンへの感謝、という目線も含まれている。過去の作品のセルフオマージュというか、あ!このシーンなんか知ってる!という場面があちこちに散りばめられている。

それはまるで、リアルな世界でも「ここ来たことある!」とか「このひとなんか知ってる!あったことある気がする!」「良くわからないけど懐かしい」といった、デジャヴなのか前世の記憶なのかわからない不思議な気持ちになるときのような、そんな感覚にさせてくれる、これまでに見たこともないような映画だ。

これは、ナウシカやラピュタ、魔女の宅急便や千と千尋、などなど、今世という短いなかでも様々な冒険活劇をすべての観客と共にまるで輪廻転生してきたように繰り返し見てきた宮崎アニメだからこそできたこと。

まだ黄泉の世界や輪廻転生を意識するには若すぎる世代(わたし含む)が、頭で考えさせず直感で感じ取れるように、あえて意味不明なキャラを出したりしていると感じる。

宮崎駿監督をリスペクトする新海監督の映画の登場キャラやシナリオには、「○○の暗示では?」と答えを求めたくなるところがあるが、宮崎駿監督のこの作品は、そのような謎解きをすることを求めない、もっと魂の目でみてほしい、大切なのは答えを求めることではなく、その向こう側にある、自らが創造する真理にこそある、といった気持ちが込められているように思った。

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★注意①★これから見る人はこれ以降ネタバレありなので読むかはご判断任せます。

★注意②★以降、あくまで神話オタクのわたしの勝手な解釈です。わたしが勝手に確信をもって、「そうに違いない!さすがすぎます宮崎駿監督!」と自己満足していればいいだけの話。ただ、個人的には納得しまくったので、観賞後に「つまんなかったなぁ(よくわからなかった)、、」と感じてしまったひとは、ぜひ以下を読んで、お金払って見に行ったぶんくらいはワクワクしてほしい。
そして、他人の「つまらなかった」評判だけみて見ないことにするのはとても勿体ないし、ジブリアニメでこれまでさんざん魂を育ててもらったことへの感謝を忘れちゃいけない。



ちなみにわたしは、この映画には思いっ切り「古事記」感じた。

登場人物たちの役割は、イザナギとイザナミの関係、時空を越えてアマテラス、スサノヲ、ツクヨミの関係性も感じたし、ニニギやアメノワカヒコ、サルタヒコの暗示も。
その神たちも人間臭く悩み、悪意やエゴを越えてきたからこそ魂が成長していった、ということが描かれている。

そしてなにより大切なことは、自分の在り方は自分で決める、それに気づいたときにやっと己のなかの世界は拓かれる、岩戸が開く、ということ。

ところで、作品には鳥がたくさん出てくる。
主人公の真人(まひと=真の人)を騙す役目からだんだんと導き手となるアオサギや、群れをなして輪廻する魂を食べるペリカン、人を食うインコなど。

鳥、という繋がりからイメージを膨らませると、古事記以外の世界規模の古代神話に繋がっていくスケール感になっていく。

実は、日本の自然崇拝と共通点が多いとされる古代ケルトの人々は、輪廻転生の概念をもっており、「鳥は人の生まれ変わり」と考えられていたそう。
登場するアオサギは、なかに鼻のデカイオッサンが入っている。
鼻がデカイ=手塚治虫アニメではよく登場するサルタヒコじゃないか。
シュメール神話であればサルタヒコはニンギシュジッダ。あの世とこの世を行き来する導き手であり、人類にさまざまなテクノロジーを与えたエンジニアだ。
アメノウズメに遣わされたサルタヒコもニニギの行く先を光で照らした導き手だ。

古来、世界的にみても、鳥というのは天上界(または冥界、黄泉の国)と人の世界を自由に行き来できる存在とみなされてきた。

アメリカ大陸の先住民族でもハチドリやイーグル、コンドル、ワタリガラス、マヤならククルカン(ケツァルコアトル)は、神のメッセージを我々地表人に伝えた。

中でもサギは各地の神話や伝説に頻繁に登場しているようで、神々と人々を繋ぐ鳥として扱われることが多かったようだ。

古代エジプトでもオシリスの心臓から生まれたアオサギがモチーフとなったベヌウという聖鳥がいて、オシリスの司る冥界と地表世界を自由に行き交うことができたそう。

またギリシャでも、女神アテネが戦場にいるオデュッセウスに伝言するのにサギを遣わしていたとか。

世界の神話から改めて古事記に戻るが、古事記でもアメノワカヒコの葬儀の場面でサギが穢れを祓う役目としてでてくる。
そもそも真人がアオサギに矢を射るのはアメノワカヒコそのまんま。もとは高天原にいた神様で、アマテラスの命を受け地上に降りたつが戻ってこなくなった。
そこでアマテラスは天照大神はアメノワカヒコを連れ戻すよう他の神を遣わすが、アメノワカヒコはその神を「矢で射ってしまう」のだ。
その矢がアマテラスのいる天界まで届き、それをみて怒った神様が矢を投げ返したらアメノワカヒコ刺さって死んでしまう。(死は生まれ変わり、開眼の暗示とすれば真人が真の人になったとすれば話は成立する。)

さて、このサギ「鷺」という漢字、「路」に「鳥」と書く。
なかなか興味深い。
調べてみると、「各」はさい(神への祈りの文である祝詞を入れる器)を供えて祈り、神の降下を求めるのに応えて、天から神が下ることをいう。それに「足」を加えた「路」は、神の降る「みち」をいう。道路とは、呪力によって祓い清められたみちをいうのだそう。
まさに、神話にでてくる鷺の役割が、鷺の漢字の由来に完全一致する。

最初は見た目も怪しく、人を騙そうとしていると疑いをもっていた真人は、最後にはアオサギを「友だち」と言った。

自らの人生を生きるための気付きを与えてくれた大切な存在だと、心の目で見抜いたわけだ。

死はただの節目。
長ければ良いってものじゃない。
どう全力で生き抜いたか。
他人からの評価ではなく、自らの納得で。

やっぱり宮崎駿監督はすごすぎるわ。

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西村圭司(にしやん)
問題の一部であり続けるのではなく、解決の一部でありたいと思っています。