「日はまた昇る」より「風と共に去りぬ」のほうがいいなと思えてくる。

ロスト・ジェネレーション。

2年前に、ヘミングウェイを読んでいた時は、第一次世界大戦後のロスト・ジェネレーションを理解するには到らなかったが、今こんな風に思う社会になろうとは想いもよらなかった。

コロナ禍で、本来あるべき日常が失われ、制約と縛りの中に身を置かざるを得ず、自由に未来と希望を描けない今日の私たちは、まるでかつての「失われた世代」ではないだろうか。


僕がバーをしているのはお酒の文化が好きだからだ。世界にはいろんなお酒があり、どんな味がするのか、どんな風に作られているのか、どこで作られているのか、そんなことを考えたり、人がお酒を飲む風景、シチュエーション、スタイル、そんなことをイメージすることにワクワクする。

ヘミングウェイの小説にはそんなワクワクが詰まっている。

「日はまた昇る」の主人公、ジェイクとその仲間たちは、行く先々で何かを食べそして酒を飲む。自堕落な若者たちの物語のその時々のシーンの描写のなかに、”酒を飲む”ことにスタイリッシュの枠組みをあてはめ、そしてカッコ良さを感じるのは僕だけだろうか。

物語の中では、毎日そして一日中、旅先で彼らはなにかしらのお酒を飲む。
どこか旅に行こうと誘う5ページ目のシーンで、早速お酒を飲むシーンが登場する。

カフェでコーヒーを飲んだ後、フィーヌ(ブランディ)を何杯かやる。

パリでは、カフェというのはコーヒーもお酒も楽しむところだ。
ちなみに、僕の店も名前に”カフェ〇〇”と付けているが、このフランス流を取り入れたつもりだ。

フィーヌは僕もまだ飲んだことがない。
フィーヌに似た蒸留酒に、他にマールやグラッパがあるが、これもヘミングウェイの小説には登場する。

その次に登場するお酒は、ウィスキーのソーダ割。
まだこの物語の旅行は始まっておらず、パリでのシーン。
14ページ目で、その情景はこんなジェイクとコーンの会話。

「ちょっと下に降りて、一杯やらないか」
「でも、仕事中なんだろう?」
「いいんだよ」

僕らは階下のバーにいって、ウィスキーのソーダ割を飲んだ。
コーンは周囲の壁ぎわに並んだボトル入りの木箱を見渡した。
「いいバーだね、ここ」
「酒は何でも揃っているからな」

このあと、彼らはカフェに行き、テラスのテーブルで暮れなずむ街の景色を眺めながら、
アペリティフとして、出会ったばかりの女性とペルノーを飲むのである。

さらに場所を変え、夕食をとる。
そして、当然のようにワインを一本開ける。

こんな風にいろんな場所で、食事をし、いろんな酒を飲むシーンが繰り返される。
なにしろいろんな酒が登場する。

フィーヌ、ウィスキーのソーダ割、ペルノー、ワインのあと、
ブランディのソーダ割、シャンペン、ヴーヴクリコ、マムズ、ビール、コニャック、ポルト、ジャック・ローズ、シャブリ、ラム・パンチ、ベルモット、へレス(シェリー)、アニス・デル・モノ、アブサン、フンダドル(ブランディ)、アモンティリャード・ブランディ
、シャトー・マルゴー(ワイン)、イッサーラ(ワイン)、ヴュー・マール、マティーニ、
リオハ・アルタ(ワイン) (登場順)

カフェで一杯飲む
アペリティフで飲む
昼も夜も、そして一晩中飲む

この物語は、そんな自堕落な様子の中に描かれる人間模様だが、お酒を店で頼む、その時々で頼むお酒が違うのも興味深い。

ヘミングウェイ自身が酒豪だからこそ、こんなシチュエーションが描けるのだろう。

かつての文豪たち自身も、お酒の話が欠かせない。
そして、小説の中にもたくさんのお酒を飲むシチュエーションが描かれている。
そんななかでもヘミングウェイの小説の世界には、何か憧れのようなものを感じる。
こうやって書いていて思うのは、僕はどうやら、ハードボイルドと云われる人の小説が好きなのかもしれない。

「日はまた昇る」を読もうと思ったとき、このタイトルには未来への希望が込められたものだと思っていた。でもそうではなく、どんな人生の1ページを過ごしたとしても、明日は当たり前のようにやってくるというような意味だ。明日に希望を抱くようなことでは全くない。
そこには、抜け出すことのできない虚無感がある。

この虚無感がロスト・ジェネレーションを表現している。

今のコロナはいつかは収束すると思っているけれども、去年からずっといつか、いつかと思いつつ、1年以上が過ぎ、まだ出口は見えない。
なるほど、まだすっかり喪失感とまでは到らないが、なんとなく、もうどうでもいいという気持ちになりつつある。
それを理解するのに、ロスト・ジェネレーションという定義を知るのは役立つかもしれない。

でも、それよりも「明日は明日の風が吹く」の気持ちでいたいかな。

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