出来る人の苦難
私は家事が嫌いだ。
清潔な生活と健康のために、やらねばならないからやっている。
少し前に友達と、子供が片付けないとか、片付けられる人だけが大変な思いをしているとか、片付けなければならない状況になったら片付けるのでは?とか、色々話したことがある。
片付けないで平気な人とそうでない人が同じ空間にいると、
どうやっても片付けないと嫌な人が片付ける事になる。
料理については
料理は嫌いでも美味しいものが食べたい人と、
料理が嫌いで味にこだわらない人が同じ空間にいると、
お金があれば美味しいものを買ってこれるだろうけど、
継続的にそれが続けられないと
料理が嫌いでも美味しいものが食べたい人が作る
ようになってしまう。
味にこだわらない人が作ると多分不味いからだ。
何が言いたいかというと、
料理でも、掃除でも、洗濯でも、生活の色々なやる事は、
それが好きだろうが嫌いだろうが、そんな事は関係なく、
行える能力がある人、行わないと嫌な人、
より綺麗にできる人、汚いと嫌な人、
より美味しく作れる人、不味いと嫌な人、
見た目が美しくないと嫌な人
センスのない物を置きたくない人、
など、それらを生活や環境をより最適に行える側がやる羽目になってしまうという現実がある、ということ。
そしてその能力がない人や、やらなくても平気な人は、いつまで経ってもやらなくて済む、という状態になりやすいということ。
そういう家事とか生活事が嫌いでも、できる能力がある側がやる羽目になるのだ。
掃除や洗濯が嫌いでも、
清潔や見た目が不潔や汚いのやダサいが我慢できない人が、
汚いのやダサいのや片付いてないのが平気な人と生活してると
掃除や洗濯やらねばならなくなる。
料理がそんなに好きでなくても、
栄養や健康で体を害するのが心配な人が、
そんな事全然気にしない人と生活してると、
メニューを気にして料理せねばならなくなる。
ダメな人を出来る人が支える。
社会でも、家の中でも、同じ事が起こっている。
好きとか嫌いとかすら言えない状態に陥れられるのが、
出来る人なのだ。
だってみんなやらないんだもの。仕方ないじゃない。
こういう状態にいつもなる。
やれる人がやれる時に
出来る人ができる時に
いい感じの物言いだけど、家庭内では、結構虐待では?と思うような負担率となる。
家事が好きな人は関係ない。好きなんだから。って言うかもしれないけど、
好きでも限度があるよ。
真面目で出来る人の苦難。
彼らを幸せにしてやってほしい。