「天才肌」と呼ばれて〜アスペルガー作家・ソラノカナタの創作術〜
「天才肌」だと、昔からよく言われてきた。
たとえば、文章の書きかたにしてもそう。
他の人がどうやって書いてるのかわからないから比べようがないけれど、私の文章の書きかたって、どうやらかなり普通と違うらしい。
2歳で読み書きを始め、小学校に上がると「国語の天才」と言われ、高校入試の国語では満点を獲得し、半世紀を生きてきてなお120程度の言語性IQを誇る。
作文を書けば、どの担任にも「非凡なものをもっている」と褒めちぎられ、高校時代には「あなたは作家になるべき人だ」と、作家になることを強く勧められた。
国語は大の得意だが、数学が極端に苦手で、結果的にプラマイどころかマイナス……つまり平均以下の成績に留まってしまい、高校も大学も希望の学校に進学することはかなわなかった。
もしも、国語だけで受験できたなら。
東大や京大レベルでも行けるんじゃないかって、いまでも本気でそう思っている。
それくらい、国語力には子どものころから相当な自信があったし、まわりからの評価も高かった。
ライティングは、きちんと学んだことはない。
小学校や中学校の国語の時間に学んだこと以外に、「書くこと」について誰かから教えてもらった記憶がない。
文章術の本などを捲ってみても、すでに知っていることばかりで、自分にとっては当たり前のことしか書かれていない。参考にはするものの、あまり学びにはならないというのが正直なところ。
習うより早く、いつのまにか自然に身につけていた。
つまり、いわゆる我流でやってきた。
そんな私の、普段の創作の様子について、ちょっとばかし書いてみようかなと思う。
「よし、書くぞ!」
そう構えて書き出すと、だいたいショボい文章になるのは私だけだろうか?
そんなんで書いても自分が楽しくないし、おもしろくもならない。
毎日、寝る前に日記を書くのが習慣になっている私。
先日のことだが、ルーティンをしっかり守る私にしてはめずらしく、何も書かずにそのまま寝てしまった。
眠たくて我慢できなかったからというわけでもなく、ただなんとなく、その日はそうしたかった。そんな気分だった。
翌朝にゆっくり書こうと思い、その日の楽しかった出来事を頭に思い浮かべ、余韻を楽しみながら床についた。
一夜明けて、クリアになった頭で書く日記は……
なんかつまらん!!!
キレイにまとまりすぎていて、ちぃーっともおもしろくない。
深夜に書くのとは違って、朝に書くと、字も文章も変にキレイに整ってる。
キレイに書けてるんだけど……うーん、なんだろう?
そうそう、「味」ってもんがないんだよな。
私って、「書くぞ!」って意気込んで書くのが、つくづく向いてないんだな。
それを再認識させられた出来事だった。
寝る前に日記を書いていると、書くことに夢中になって気づけば長時間になって、そのせいで寝るのが遅くなってしまうから、書く時間を変えたほうがいいかなーなんて考えていたんだけど、ナシだな。
やっぱり、どんなに疲れていてもその日のうちに書こう。
それがリアルでいいんだよ。うん。
うまく書こうとすると、うまく書けなくなる。
勢いが大事なんだよね。
そのとき見たもの、聞いたもの、感じたこと。
そのときそのときの情景と感情を思うままに、私は綴る。
文章を書くうえで、本を書くときには特に、コンセプトや構成の設計が最も重要だと言われる。
それは、そのとおりだと思う。
だけど私の場合、そんなのは後回し。
設計図を作るように書くのは苦手だ。
書きたいという想いが先。
コンセプトや構成なんてのは、後からついてくるものだと私は思っている。
勢いにまかせてぶわーっと書き進めていったら、いつのまにか設計図もできちゃってた、みたいな。そんな感じ。
5W1Hだとか起承転結だとか、そんなのもあんまり意識して書いたことがない。
書いているうちに、勝手についてくるから。
頭に浮かんだイメージを勢いに任せて、言葉を連ねていく作業が好きだ。
書いていくうちに自然とストーリーができていくから、頭のなかでぼんやりとイメージしている構成にそれを乗せていけば、ひとつの作品としての流れができる。
あとは、要らないものを削ぎ落として、足らないものを付け足して、パーツを入れ替えたりして継ぎはぎしていけば、だいたい思ったとおりのものが書ける。
まるで、パズルみたいだな。
つい最近、それに気づいた。
パズルで遊ぶように、あるいはアート作品を創作するように、私は文章を書いていたのだ。
誰に教えられるでもなく、そんな手法をいつのまにか自然に身につけて書いていたのだ。
やっぱり私って根っからの「アーティスト」なんだな。そう思った。
こういうのを「天才肌」と言うのであれば、たぶんきっとそうなんだろう。
きっちり構成を組み、目次もしっかり作ってから書き始めるような、そんな設計図を書くような書きかたは、おそらく私にはできない。
絞り出したり、捻り出したり、計算したりして書くタイプとも違う。
頭のなかの思考を整理するのにはマインドマップが最適だとよく聞くけれど、私の場合、余計に頭が混乱して整理ができなくなるような気がするので、やらない。
食わず嫌いのようなもので、やってみたら意外といい感じになるのかもしれないけれど、まだやったことがない。
私はあれと同じようなことを、自分の頭とエディタのなかでやっている。
私の脳内の整理はきっと、マインドマップではとても追いつかないと思う。
こんなことができるのは、ASDとADHDの特性があるからかもしれない。
私だからできるのであって、たぶん誰にも真似できないんじゃないかな。
もし私がアスペルガーでなかったとしても、きっと文才はあっただろう。
新聞記者をやりながら小説や短歌なんかも書いていた、おじいちゃんの孫だからね。
もともと持ち合わせていた才能に、発達の特性が合わさることで、私の文章はより「ありふれたもの」ではなくなるのだ。
ライティングというものをきちんと学んでこなかったから、ライティングを学べばもっといいものが書けるんじゃないか。そう思ってた時期もあった。
だけど私の場合、下手にライティングを学ぶと、自分のよさが失われてしまうかもしれない。
他のみんながやっているからといって、同じようにやる必要なんてないのだ。
高校を卒業して、もの書きになるためにジャーナリスト養成の専門学校に行くつもりだった。
親に反対されて結局は行けなかったけど、もしかしたら、行かなくて正解だったのかもしれない。
作家の養成スクールに行くことも検討したことがあるけれど、それも、行かなくてよかったのかもしれない。
そもそも、スクールに行って成功した人なんて、ほとんどいないらしいね。
歌にたとえるならば、ヴォイストレーニングや音楽スクールに通って歌を習っても、必ずしも歌がうまくなるわけではない。それと同じことなのかな。
ほんまにできる人って、ほとんどが我流だっていうしね。
その人がもともと持っているもの、すなわちそれを「センス」だとか「素質」だとか「才能」なんて言うんだろうけど、それって本当にデカいと思う。
ライティング技術よりももっと、私には他に磨くべきものがあるような気がしている。
人は人。私は私だから。
型にハマるのが大嫌いな私らしくて、いいじゃないか。
私は、「ライター」ではなく「作家」だ。
決められたテーマで書くことや、「こんなふうに書いてください」と指示を受けて書くのは、正直言って好きじゃない。
学校で書かされる作文や感想文も、本当はあまり好きではなくて、どちらかというとイヤイヤ書いていた。いや、「書かされていた」に近いか。
それでも書けば、やっぱりみんなに褒められてしまうんだけど。
書けるんだけれど、それで書いてもおもしろいと思わないんだよね。
「私が書きたいのはこんなんじゃない!」って思ってしまうから。
だから私は、作家であり続けたい。
自分が書きたいと思うことに、とことんこだわりたい。
もちろん、商業出版の世界で作家をやるなら、そんなことばかり言ってはいられないこともわかってる。
売れるもの、需要があるものを書かなければ意味がないことなんて百も承知。
でも、たとえ需要がないとしても、自分の書きたいことを書かなければ、作家をやっている意味がない。
私は、そのために生きているんだから。
こんな話に共感してくれる人って、どれくらいいるんだろうか。
私はこういう、ちょっと特殊なやりかたで書いているんだけれど、みんなはどうやって書いてるんだろう。めちゃくちゃ興味があるんだよね。
あなたは、どう?