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この時期になると想い出す。亡き父が好きだった桜を。
先日、朝のニュース番組で桜の開花予想が流れていた。「もうそんな時期か…」と、毎度のことながら思う。
この予想を見ると、春が近づいていることのワクワクもあるが、胸がきゅっと切なくなる気持ちの方が強い。
旅行と鉄道が好きだった父は、母と二人で北は北海道、南は沖縄まで各地を旅行していた。そんな旅好きの父が特にお気に入りで、何度も足を運んでいたのが奈良にある吉野山である。
吉野の桜は山全体が世界遺産な桜の名所で、一目千本(ひとめせんぼん)と言われている。その名の通り一目見た時に、千本の桜のパノラマは圧巻である。
この桜が満開の時期を予想し、旅行の予約するのが父の楽しみであった。
実際にどんな風に日程を決めていたのかは分からないけれど、行く日を決める前も決めた後もとにかく楽しみにしていた。
亡くなる年も京都・奈良への旅行を予約していた。ちょっぴり贅沢旅にしたかったようで、新幹線も初めてのグリーン車にグレードアップ。
気候も読み通りで、旅行の日には満開の予定。
しかし楽しみにしていた矢先、父は持病の悪化で入院を余儀なくされた。
わたしの物心がついた時から入退院を繰り返していた父は、家族と離れたくなかったのか(単に病院嫌いなのか)、いつもお医者さんに「あと〇日遅かったら大事に至ってますよ…」と呆れられるほどギリギリにならないと病院に行かなかった。
この時も、待ちに待った旅行が近づき、彼なりにだましだまし体調の様子をみて「旅行までは…!」と、我慢していたようだ。
その年にこの世を去ることが分かっていたら、無理やりにでも連れて行けば良かったのかなぁ……とも思うことがある。
でも現実問題、最寄りの駅からバスに乗っても、途中からは自力で坂道を登らなくては行けないので結局は無理だったよなぁ…と、未だに自問自答をしてしまう。
もし本人が余命が長くないことを悟っていたとすれば、入院することをいつもよりもっと後ろ伸ばしにしたいと、病院から逃げていたことにも合点が行く。
病院へお見舞いに行くと、代打で行くわたしに父は少年のように目を輝かせながら、おすすめの旅順、乗り換え方法、「ここは行った方が良い場所」など沢山教えてくれた。
Googleや乗り換え案内があれば現地でも調べることが出来る。
だけども、ノートにびっしりメモが書いてあるのを見てしまうと、わたしが楽しそうに聞くことで行けない無念さも報われるのかなぁと思い、ひたすら聞いた。
父の用意したチケットで吉野山に向かうと、桜は満開のピークが過ぎたのか少しくすんでいた。でも一目千本は見渡す限り桜、桜、桜で想像以上に圧倒された。
母曰く、吉野山に行く道すがらでお弁当を買って、この桜を見ながら並んで食べるときが二人の幸せだったそう。父の代わりに隣でお弁当を食べる娘を見て、当時を思い出し懐かしんでいた。
京都駅から電車を乗り継ぎ2時間、その後ケーブルカーと軽いハイキング。正直、気軽な気持ちでは行けない。
わたし自身、代わりでなきゃ行くことも無かったので、きっかけを作ってくれた父に感謝だ。
・・・
今回このnoteを書くにあたり、写真を掘り返してみたら4年も経っていたことに気付く。
一緒に過ごした日々は昨日のことのように思い出される反面、父がいなくなってしまった虚無感をぼやかしながら過ごしてきた。
寂しさや辛さは時間が経つにつれて薄れてきている。
だけども、父との想い出を宝箱にしまって向き合わないようにするのは違うのかな?と思うようになってきた。
もうすぐ桜の時期がやってくる。今年は時間も自由に取れるし、4年ぶりに京都へ行くのもありかもしれない。
編集:アカ ヨシロウ