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君の笑顔
秋が来たと思ったのに、まだ夏の終わりがだらだらと長引いているような宙ぶらりんな気候が続いている。
インターバルがほぼ無いサーキットトレーニングを繰り返しているような私の仕事は、先月は更に過酷で、絶えず全力疾走しているかのような日々だった。
約10年振りという施策に携われて少し誇らしいような、蓋を開けて結果を見るのが怖いような。
いずれにしても、来週には世に出てゆく。
喉元過ぎれば、とは良く言ったもので、あんなに早く過ぎ去れと念じていた日々が、作品が手を離れた瞬間から“仕事上のキャリア“へ置き換わり、都合良く自己消化される。
全力疾走していた日々ではテンポの速いサウンドばかり流してくれていたSpotifyは、昨日から一転してメロウな曲ばかりセレクトしてくるようになった。
本当に私の気分や体調を読んでいるようで、若干怖い。
“一枚の写真“は夏の終わりの歌。
台風が過ぎ去ったあとの澄み切った青空には不思議と違和感なく重なる。
この曲を聴くたびに思う。
泣いたあとの写真の彼女は、笑顔を見せているのだろうか、と。
“今ならまた別の恋が出来るかも“と思うのは、想い出の中の昔の恋人の記憶が笑顔だから。
もしかしたら、人の記憶の殆どは都合よく美化されたものなのかもしれない。
全ての表情や記憶を鮮明に記憶して反芻できたなら、きっと“あの頃に戻りたい“とか“今ならきっと“とは思わないはず。
ああでも、歪な記憶を繋ぎ合わせなければ前を向けないのが人間の性質なのかもしれない。
そうしなければ、生きるのが辛くなってしまうから。
仕事も、恋も、生きてゆくことに纏わるすべてのことも。
ふと思い出す、また会いたい人たち、もう二度と会えない人たちは、みんな笑顔だ。
私もまた、誰かの記憶の中ではいつも笑顔なのだろうか。