暁山禅師 核心の説法「コノモノ」2018年9月24日(テキスト版)
2024.11.17 更新
暁山禅師の【カフェ寺 2018年9月24日】 のYouTube 動画があまりにも素晴らしいので、文字に起こしてみました。禅師は、知識以前の<現前>を直指しています。
なお、この下の目次とテキスト中に示した "時間 + 小見出し" は、筆者が便宜上追記したものです。また、よく聞き取れない部分などは、 筆者の推定で文字を当てている場合がございます。
💛
0:07 有るとか、無いとか
3:01 対象化以前
7:25 自我という仮在
9:06 <人の生きざま>
10:51 跡なし
13:06 釈尊の悟り
15:34 考え方で探究しない
19:50 善悪以前
23:04 記憶は過去のもの
25:03 <コノモノの生きざま>
29:10 即座の悟り
34:13 結論は<今の生きざま>
♣
36:23 満足と救い
40:28 正しく聞く
42:26 教外別伝
46:05 <自活動>
50:00 言葉のズレ
51:55 <自己の本質>
54:22 仏性のハタラキ
56:31 誰でも悟れる
♠
0:07 有るとか、無いとか
最初にですねぇ、その、物が有るとか無いとかっていう、その、話をこのあいだも、その~、たとえばこうやって(閉じた扇子を前に出して)、こんなものが見えるときに、、、、
"有るとか無いとかいう話" が、なかなか伝わらないっていう、そういう質問があったんです。
で、どういうこと言ってるかと言うと、この、私という人が関わらないと、物がどれだけあっても、<見える>ということはありません。要するに、この私のハタラキの中に<見える>というハタラキがあって、私が関わらないと、物がいくらそこに有っても、物の存在は、、、、(扇子を机の下に下げながら)これはこれで無くなるわけないと思うでしょ。
(扇子をまた上にあげて)この物の話をしているわけではない。この物の話をしてると思って皆さんいるもんだから、これが有るとか無いとかっていう話だと皆さん思っているんですよ。
(扇子を振って)こうやって見えたときに、「有りますよね?」って言う、「間違いなく有りますよね?」って言うと、「はい」。(扇子を机の下に隠して)「無いですよね?」って言うと、「いや下に~、下にあります」っていう話になるじゃないですか。こ、だから、それは、これをずっと追っかけて見てるっていうこと。ね、これを追っかけて見てるんで、こっちの方にポイントを置いて見てるから。
でも、それでもよくよくこう見たら、視野に入っている間は確実に有るんだけど、視野から消えたときにはまったく無いようになってますよね。そこのところが、まず、あの~、自分の中にハッキリしないと、この、お釈迦さまから伝えられた教えってのは、そこがポイントなんでね、そこがわからないと、どこまで行ってもわからない。
だから、すべて、見えるという物の存在も、聞こえるっていう音の、声の存在も、匂いも、味も、身体の感覚も、ことごとく、この(顔の周りを扇子でくるりと指して)<私というコノモノの生活>の上に全部あることだっていうんです。そこが一番最初のポイントです。全部、生きてるってのは、全部自分のことだということです。
3:01 対象化以前
いわゆる「対象」として見えてる物にしても、聞こえる声にしても、味にしても、匂いにしても、感覚にしても、たぶん、「対象」として私たちは、ほとんどの人が捉えていると思うんです。自分以外のものとして「対象」として捉えているから。ほぼ 、ほぼ 100人中 100人って言っていいと思います。
それをそういう認識で、生活の中で物を見たり、聞いたり、匂ったり、味わったりしているようなもので、<全部自分のことだっていうような感覚>で生活している人は、ほとんどいないと思うんですよ。「対象」として捉えて生活している。
で、「対象」でないってどうなっているかというと、たとえばこうやって今、目の前に、あの、飲み物が出てますけど、これを(ティーカップを持ち上げて)飲んだときに、その味っていうのは、「対象」、、、ですか? 自分の「対象」として味があると思ってらっしゃるんだろうか。これ一番身近ですよ。飲んだらわかる。飲んだらわかるけど、その味は「対象」としてあるものなんだろうかっていったら、「対象」でないってことぐらいは、わかると思うんですね。
もう少し言えば、私が飲んでるっていうような感覚は、まったくないはずです。知らずに手を出して、知らずに飲んで、ちゃんとそこで味わっているはずです。だから、「対象」じゃないでしょ。
それでもどうしても、この(顔から胸のあたりを両手で指して)これを「私」というように、いつのまにか認識して捉えていますから、これをガッチリ「私」って言ってると、「私」以外のものは、全部「対象」になるでしょう。だけど、生きている様子をみると、「対象として」っていうのは一切無いんですよ。全部、さっきも申し上げたように、聞こえることも、この私の活動であり、見えることもこの私の活動であり、味も、匂いも、身体の感覚も、、、
もう一つは、その五感を通して、触れたことがわかるというハタラキが、いわゆる<意>と言われている、認識のハタラキですよね、それは、わずかに知る力は持ってます。そういう活動を含めて六感とか六根とか言っているけれども、その活動自体、全部この私のことですよ。他人の身体を借りて活動しているわけじゃないもの。この自分のこの身体で、活動して生きているわけですよ。
だから、お釈迦さまが悟られたっていっているけれども、悟られたってどういうことかっつったら、まずは今申し上げているように、自分以外のものが、「対象」でないっていうことをまず、知らないといけないんですよね。今まで「対象」だと思っていたけれども、まったく「対象」でないっていうことを、まず、ハッキリしたっていうことですよ。
7:25 自我という仮在
で、もう一つは、対象でないっていうことの中には、(顔の周りを指して)これを「私」と思っていたけれども、これ自体に、「私なんていうような考え方」は、くっついて生きてない。そういう「考え方」はついて生きてない。「考え方」の中で、これを「私」って認識しているんですよ。「考え方」の世界の話ですよ。実物はどうなのかって言ったら、実物は「私」なんてものは、影も形もない。どっこにも、、、、ねっ。
「私」って認識するから、コノモノの存在があるわけじゃないし、認識したってしなくたって、コノモノはちゃんと、厳然としてハッキリあるじゃないですか。何も問題ないじゃないですか。認識しなければ私でないなんて、そんなことはない。そういうところに、「私」という思いも、人間の「考え方」の中で構築されたものだってことですよ。思いの中で造られた概念です。思い込みです。そういうものも、どっこにもないということを知らないとダメですよ。
9:06 <人の生きざま>
それじゃあ、(人間の)<生き様>はどうなっているかっつったら、今触れている、今の皆さんの様子だったら、今、声が聞こえてるんですよ。それ、老師の声だとか、私が聞いてるとか、言わないでしょ。
尋ねると、どっかでそう言葉をつけたくなるけども、私が尋ねなければ、知らないじゃないですか。ただ、声が聞こえているだけじゃないですか。そのとおりのハタラキをしている。私の発音と同じものが、皆さんのところで活動しているってことじゃないですか。それ以外に、生きているっていう様子は、どっこにもないですよ。それを生きてるっていうんですよ。
よく、「今を生きる」とかいうような表現が、たくさんされています。絶対、誰もが、今を生きているんですよ。今以外のところで生きている人なんて一人もいない。その今の自分の様子ってのは何ていうのかって言えば、さっき申し上げたように、聞こえることも、見えることも、味も、匂いも、「対象」でなくて、正真正銘、そのとおりの活動をしている。
10:51 跡なし
確実にそのとおりの活動をしながら、どこにも跡を残さないようにして生きています。
跡を残さないっていうことは、どうなっているのかっていうと、(またティーカップを持ち上げて)これ味わった後に、もう一つ、たとえば、お菓子を口に入れるとしたら、この味が残った上に、お菓子を味わうんだったら、これ飲んだときにこの味で、お菓子食べたときにお菓子の味になるんですよ。理屈抜き。だから、いろいろなものをこう頂いても、一つ一つがおいしくいただけるってのだってそうでしょう。前のものを残してない証でしょう。
そういうように、人の、この六感といわれる機能のハタラキって言うのは、本当に今の様子だけ。今といってつかんでおくような、人がつかんでおくようなものはどっこにもない。つかんでいた、つかんだと思ったって、どっこにも跡かたない。(手を)開いてみたら何もない。
間違いなく、その時には、いいですか、(パシッ! と閉じた扇子で机を打って)こうやって聞こえたときに、このときには間違いなく、(パシ!)このとおり、パシッ!っていう活動をしたんですよ。音が消えたときにどこにあるんですか? どっこにも、何もないじゃないですか。(顔の周りをグルリと指し)自分の生活として。影も形もないようになってるじゃないですか。ね。
13:06 釈尊の悟り
それほど、(顔の周りを指して)コノモノは、ものを持たない、持ちたくても持てないようになっている。そんなに、すごい、どうしたんでもないですよ。「考え方」で無くしたわけでも、次のものを聞くような態勢をとったわけでもないのに、きちっと、そういう活動をするようになっている。すごい活動だと思いません? そういうことに気づかれたのが、お釈迦さまの悟りという中身です。
ね、だから、お釈迦さまが悟られたという内容の、中身は、今(あれから)2,500有余年になりますけれども、じゃあ、今、私たちはどうかって言ったら、私たちもお釈迦さまと同じ生活しているんですよ。お釈迦さまと寸分変わらない生活ができてるんですよ。これから教えを聞いて、修行をして、時間をかけて、積み重ねて、努力をして、普通そう思っているけども、そんなこと一切ありません。
仏教の話も、禅といわれる話も、お寺に行ったこともない、仏典を読んだこともない。まったくそういうのとは無縁の生活してても、それじゃあ、(パシッ!)この音に触れたときに、このとおりに聞こえるってことは、今申し上げたような経験は一切いらないでしょ。
いきなり今触れていることだけで、人は生きてますから、そういうこと(修行の積み重ね)に用はないようになってる。お釈迦さまも、そうおっしゃっている。で、私たちはどうなのったら、私たちも今そうやって生活しているじゃないですか。
15:34 考え方で探究しない
今は、言われたことが、何とか理解ができるかできないかってのはあるけども、まあ、何とか理解ができたとしたら、うん、そういうことだなあっていうことは、わかります。あとは、そっから先です。
そっからさき、どのようにしていくのかっつったら、人間が今まで培った、知識だとかいろんなもの、そういうようなものの方から「探ろう」とする、そっちの方向に行ったらダメだっていうことだけです。
そっちの方向に行かさせないように、2500年ず~っと、そういう方向で指導されてきています。「考え方」の方に、徹底的に、行ったらそっちは道が違いますよって、方向が違うんですよってこと。
普通は、今まで培ったものを土台にして、そこから、どういうことだろうっていうふうに、この、「探って」いこうとする。「考え方」で「追及しよう」とする。他の学問とか研究の分野では、たくさん使われています、それが。それはいいんですよ。その分野では、そういうことを必要として、そういう方向で「追及して」いってますから。
ただ、この私というものが、どうあるのかっていうことに、その一点に目を向けたときには、そういう、「考え方」で「追及する」ことは、決定的に道を間違うっていうことです。
だから、話を聞くにしても本を読むにしても、特に話を聞くって言ったら、本当に聞くってことは、今発せられている言葉が、言葉のとおりに入ってきてるところに身を置いて頂いたらいいんですよ。
『何を言おうとしてる?』とか、ね、自分の学んできたものだったら、『そうかな~』とか、『え~』とかって、そういうことが思えたときに、その思いの方から「探る」ようなそういう方向に行ったら、生まれたままのこの自分というもの、人の様子っていうことは、永久に、知ることは不可能なんです。そっちの方向に行ったら。だから、徹底して、「考え方」を使わないってことだけです。
念押ししておきますよ。普通では「考え方」を使って生活をするようなことも、たくさんあります。だけども、
この(顔の周りぐるりと指して)私といわれるコノモノの、ありのままの、生まれたまんまの、ありのままの様子はどうなのかっていうことを知るときには、そういう、学んだ知識でもって聞いて、今聞こえてる、聞いてる話をですよ、そういうものを土台にして聞こうとする方向、それは、決定的に違うってことだけです。そっちじゃありませんよってことで。
19:50 善悪以前
それから、こういうことも言われていますよ。その<六感という機能>を見ると、活動自体は、人間の「考え方」を飛び越えて無条件ですね。条件一切なし。無条件でそのとおりに聞こえる、そのとおりの味がするようになってる、そのとおりの匂いがする。
思いだってそうですよ。『いやだなあ』って思ったときにですよ、間違いなく、『いやだなあ』という思いだったんですよ。
それに、すぐにいいか悪いか、好きか嫌いかって、それが、今までに培ってきた人間の思考の方に、一瞬ちらっとそういうことが思えると、すぐに同時に、良し悪しとか好き嫌いが出てくるわけです。ね。だから、良し悪しとか好き嫌いが、出てくる前はどうだったのかってことです。
そしたら、(扇子をパシッ!と打って)この音は、いいんでも悪いんでも、好きでも嫌いでも、そんなことはないんですよ。いきなり触れるから。(パシッ!)
あとから「探そう」と思っても、もう音はどっこにもない。何回でもやりますよ、(パシッ!)、一瞬でしょ、バシッていったら、あとから『あの音が』って、『どういうことだったんだろ』って人間が考えたからって、もう音はどっこにもないですよ。
だから、触れたときどうなっているかってことが問われるわけです。だから、今にしていることや、今どうなってるかってことが、いつでも問われてる。で、今のところには、人間の好き嫌いだとか良し悪しってことは一切、そういうものはくっついていない、介在してないってことです。
22:26 受者なし
それは、日常生活の中のすべてが、無条件で受け入れられている。。。
受け入れるっていうけどね、受け入れる人がいるような話をしているわけじゃないですよ。無条件の活動だっていうこと。無条件で活動している様子がすっかり手に入ったら、今まであったいろんなものは、無条件で、そこにいて何にもないっていうことがわかるんです。
23:04 記憶は過去のもの
どれだけ今までのものを蓄積して、記憶に残ったりなんかしてるっていうけれども、ここに出してごらんっつったら、出しようがないでしょう。どういうものですか。記憶にあるって、記憶ここに出してごらん。
ね、記憶というものはあるに違いない。記憶されているってことはあるに違いないんだけれども、必要でないときは、知らないんじゃないんですか、どこにあるとかって。
用のあるときにひょっと出てくるだけですよ、記憶なんて。だから、この音(パシッ!)に触れたときに、そういう具合に、『記憶にある』とか、ないしは、一度聞いたものは、『間違いなくそのときありました』とか。
その時あったものを、無いことにする話をしているわけじゃないです。そのに時あったことは、間違いなくその時の様子です。だけどそれは、今の話じゃないよってことです。過去の話でしょ。
過去の話持ち出して、その時どうだった、ああだったって、そんなこといくら論じてみたって、そんなもの何の役にも立たないでしょ、そんなことは。この今の自分のありようを知るっていうことにおいては、徹底的に、なんの役にも立たない。そういう生活を私たちしてるんですよ。
25:03 <コノモノの生きざま>
で、そういう中で、今話しているように、物がこう、(パシッ!)、音にしても、これが存在しているってことは、これが独立して音として存在しているっていうことじゃあないですよ。必ず、ここに(みなさんが)いらっしゃるからこそ、この音は、あなたがたの上に存在するものです。
全部そうですよ。見聞覚知と言われるように、見えたり、聞こえたり、味だったり、匂いだったりっていう、そういう活動は、生涯、生涯、、、全部<自分自身の活動>です。
呼吸ひとつだってそうでしょう。他人の体を借りて呼吸なんてできないでしょ。自分の体でなければ。
じゃあその呼吸だって、よく呼吸を整えるってなことを言われるけれども、じゃあ、整えるってどういうことかって言ったら、なんか一定の呼吸の仕方があるようにして捉えるから、整えるってことが出てくるけれども。
いつも話をするんですけれども、静かにしているときの呼吸と、駆け足したときの呼吸と、同じ呼吸だったらおかしいでしょう。駆け足してきたら呼吸は速くなりますよ。この速いときの呼吸を取り上げて、呼吸を整えるっていって、静かにしているときの呼吸のようにもっていこうとしたって、時間がかかるわけでしょ。
そうじゃなくって、そのときの状況の、呼吸そのものが、それが整っているってことなんですよ。静かにしているときの呼吸の様子と、駆け足したときの呼吸の様子と、違うのは当たり前です。違いながら整っているということですよ。
体もそうでしょ。(顔から胸のあたりをぐるりと指して)この体のハタラキってのもそうなっているでしょ。およそ、そのぐらい、人間の「考え方」ってどっかで、狂っているっていっていいんでしょ。間違っているんですね。
(顔から胸を指して)<コノモノの生きざま>の様子と、「考え方」に捉えているものとは、矛盾があるんですよ。「考え方」外したら、どっこにも矛盾はないんじゃないですか。生きてる様子に、矛盾はないようになっている。どこまでいっても、そういうことに、気づかれたってことですよ。
29:10 即座の悟り
悟りの中身っていうのは、なんか、今まで見たことのない様子が見えたとか、ね、とんでもない想像をしてらっしゃるけれども、そんなもんじゃないですよ。
今申し上げているように、自分の中に、なんにも矛盾のない生きざまができているっていうこと。それから、生活の中ですべてが、自分以外のものを「対象」として見ていたようなものが、「対象」ではないっていうこと。全活動が、この自分自身のありようだっていうこと。
そういうことが明確になったっていうことなんですよ。聞いては理解できるかもしれないけど、聞いたものじゃなくて、実物に触れて、そのとおり、本当に、そのとおりになっているんだなってことが、自分で胸落ちするってことですよ。
疑う余地がないほどハッキリ、自分でそれが肯える人になるってことですよ。
最近出た法華経の、角川文庫っていったか、本が出てるようですけど、私はまだ読んでませんけれども、その中の方に、原始仏典、お釈迦様がご存命当時の言葉として残されているようなものが多々出てくるです。そこには、今言うような気づきですよね、だから、
それは時間をかけて長年修行して、難行苦行して、努力をしてとかって、そういうことではありませんよって、お釈迦さん示されてるんですよね。誰でも即座に、即座に悟れるっておっしゃってます。悟れるっ、、、即座にそのことが明確だっていうことです。
さっきも話したように、(ティーカップを持ち上げて)これ飲んだときのこの味はですね、今、勉強不足だから、努力不足だから、本当の味はわかりませんなんて、そんな人は一人もいないと思うけど、もしそうだったら、それは、まったく今触れてることが、わからない人ですよ。(ティーカップを指さして)これ、即座ですよ。
まあ、お酒の味とビールの味はですよ、飲んで、そう、即座にわかるでしょ。何十ぺんも飲まないとわからないなんて、そんなハタラキしないでしょ、私たちの、その、舌のハタラキっていうのは。
即座ですよ。だから、悟りっていうものも、ボツボツ、いつかはっていうような、そんな時間をかけて、こんな感じで(扇子の先を右上がりに動かして)いつかはここに到達しますっていうような、そういうことは説かれてないんです。
一番最初に自覚されたお釈迦さまも、今、申し上げているように、ご存命当時は、きちっとそのようにして伝えてきています。それから、今もずっとそうです。体験者によって伝えられてるものは、必ず、即座って、ハッキリしています。
今でも、だから、私たちの生活見てもそうでしょ。生活の実態がそうなってるんです。どこを取ったって、即座です。
34:13 結論は<今の生きざま>
そんなにハッキリとした生きざまができているのに、いろんな、学んだ知識を土台にして、本読んでもそこから行こうとすると、<自分の中にあるもの>と、「こっち」とが、ズレがでるから、どういうこと言ってんだろうって探るようになるでしょ。
ね、膨大な、その、お釈迦さま当時のものでさえ 8万4千といわれるくらいの量です。日本に伝わって来てる、今、仏典見ても、国訳大蔵経とか、国訳一切経って、膨大なものですよ。私読もうと思ったら一生かかるなと思いますよ。速い人は、もっと速いかもしれないけれども、通常いったら、そのくらいの量のものです、量的に言ってね。
それ全部読みつくして、はじめてお釈迦さまの真意がそこでわかるのかって言うと、そういうものじゃない。即座にわかるように、ちゃんと説いてくださってる。だから、どことったってそういうことが書かれているんですよ。全部読まないと結論が出ないようなものじゃないですよ。
結論はここです(パシッ!)、ね、これ(扇子を振って聴衆を指しておいて)<今の生きざま>の私です、<今の生きざま>の(パシッ!)、ここ結論ですよ。
これ、「考え方」で、何を言わんとしてるんだ(パシッ!)とか、なんの意味があるのか(パシッ!)とかって、それは人間の「考え方」についての話じゃないですか。<この実物>を(パシッ!)、パシッとこれだけなんですよ。明確じゃないですか。
(ここまでて、大事なところはほぼ説かれています。ここから先は復習のようにもなりますが、核心部分の念押しや補足の説明などが出てきます。)
36:23 満足と救い
こんなに明確なにところでみんな、だから、聞こえることも、見えることも、味も、匂いも、どこをとったって疑う余地のないほど明確な活動をしているじゃないですか。その、その自分の明確な活動に、自分で満足できないから、みんな困ってるんでしょう。だって満足できてたら来ませんよ皆さん。満足できていない証でしょう。
だけど、そこのとこで、私たちが、ね、お釈迦さま以来、自覚をなさった人たちがず~っと伝えていっている言葉の中の、<満足>っていう言葉とですよ、言葉そのものは皆さんが知っている「満足」っていう言葉と、言葉どおしつき合わせれば、「満足」で、話合うこと、会話できてるんですよ。
でも、皆さん方が「満足」っていうのは、自分の「考え方」が満たされるものを、「満足」というふうに人は捉えています。「考え方」の中の「満足」の話、そういうふうに、「満足」という言葉の中身はそうなっています。
自覚があった方たちが言っている<満足>は、今、この音に(パシッ!)触れるときに、この音以外のものは一切無いようになってます。そういうところを、<満たされている>と表現しています。
そんなに時々刻々どこをとったって、今の様子に代わるものがないほど明確だっていうことが、そんなに満たされたことと生活が、今手元にあるのに(パシッ!)。なんで自分の「考え方」を中心にして、「考え方」の中で自分が納得する、そういうものをもって「満たされている」というふうに理解してますから、それが「満たされる」方向に、みんな突き進んでいるのじゃないですか。だから、「考え方」の方に行ったら、わからなくなりますよって、言われるゆえんがあるんじゃないですか。
だから、「満たされている」という言葉もそうです。「救われている」という言葉も、皆さんは今迷っているから、どうあったら本当に「救われる」のか、「救われる」っていうのはどういうことかっていって、そういうような「追及」があるでしょう。
今、お話ししたように、<満たされている>っていう表現は、言葉を変えると、それが<救われている>っていうことは、そのときに、それ以外のものは絶対に無いようになっています。そういうものを、<救われている>というようにずっと表現をしてきています。間違いなくそうなんです。
40:28 正しく聞く
皆さん方は、さっきから、何回も申し上げるようなんだけども、「考え方」の中で、「救われる」ってことはこういうものだっていうような、何となく概念が出来上がってますよ。
そこに、自分で話を聞いたり本を読んだり、いろんなことで、そこが満たされるようにもっていこうとしているから、聞いた言葉をですね、見事に、今まで学んだもので、聞き変えるんですよ。自分の都合のいいようにどっかで、うまい具合に作り変えた言葉に聞いてるんです。
そんなこと思ってませんって言うけどね。自分でわからないほどの速さで、瞬間的に、自分の都合のいい言葉にフッと作り替えて聞いているから、自分の「考え方」をどんどんどんどん、頑固な、頑丈なものにしていく方向にしかいかないですよ。
だから、どこまでやってみても、満たされないのは当たり前です。いわゆる、人間の我見を満たすような方向。自分を中心にした「考え方」を満たす方向のことです。そういう方向に行こうとしている。それは大きな誤りであることを、お釈迦さまという方は、知られたんですよ。
42:26 教外別伝
で、ここで、間違えられることもあると思うんで、もう一つ重ねて申し上げておきますけれども、お釈迦さまが残されたもの、"これはお釈迦さまの教えだ" と、そんなことはどっこにも言ってないですよ。
だから、したがって、今、日本にあるような。宗派がいろいろあったり、ね、たとえば、私ども曹洞宗ですけれども、これも一般的にはよくソウドウ宗と読んでるけど。これ濁らない、ソウトウ宗なんです。騒動してませんからね。ハハハ(笑い)、、、ソウドウじゃないですよ、ソウトウ宗。曹洞宗の場合は永平寺を開かれた道元という方が元になってます。
もちろん、親鸞がいらっしゃるし、法然がいらっしゃるし、日蓮がいらっしゃるし、空海もいらっしゃるし、いろんな方たちがいらっしゃいます。だけど、その人が説いた教えだっていうふうに、一般的にはみんな理解しています。だから、書物見ても出てきますよ。釈迦の思想だとか、道元の思想だとか。
ね、、、悟られた内容って、思想でも教えでも何でもないですよ、実物なんですよ。そこに、名前をつけてそこから学ぼうとするから、私は曹洞宗の教えを学んでいます、道元の教えを学んでいますという。それ、、、それ全部外した方がいい。誰々の教えを学ばせるんじゃない。
この、(顔の辺りを扇子の先でくるりとして)自分自身のありようを学ぶんですよ。誰の教えでもない。(顔をくるり)この自分自身のありようを(顔をくるり)学ぶっていうことを、今申し上げたような人たちが、自分の体験から伝えてきてるんです、ずっと。そこを間違えると、誰それの教えを学んでるっていいたくなるでしょう。
たとえば今だと、私たち、井上一派だとか、いろんな表現も世間ではされていますけどね、何も、井上の教えを学んでいるわけじゃあないですよ。仲立ちですからね、中間にいて、それが伝えようとしていますけれども。
あくまでも、この(顔をくるり)自分自身のありようって、どういうことなのかっていうことを知る。(顔をくるり)本当にそれを知りたかったら、知った人がいらっしゃるから、知った人が残されたものがあるから、どうしたらいいのかってことが語られてるから。
だからこの(顔をくるり)自分、全活動が自分の活動ばかりですから、この自分から目を離して、この書物を読んでみたり、この人の話を聞くとかね、それ、そもそも間違ってるんですよ。
46:05 <自活動>
この(顔の周りをくるりと指して)自分の様子にしっかり眼を向けて、そして、コノモノの無条件の活動、もう少し言えば、<自活動>という言葉もあります。ね、、、人間の「考え方」でなくて、必然的に動く活動、それを<自活動>といいます。
学ぶには、(扇子をパッと開いて)見えるという活動があるから、これも学んで見えるようになったわけじゃないですよ。努力したからハッキリ見えるようになったわけでもないですよ。そういうのを<自活動>と言って、もう一つ言葉を変えれば無条件の活動です。(顔をくるり)全活動そうなっているでしょう。
その無条件の、生まれたまんまの、何にも学ばないときの様子ですよ。言葉も知らない。
そういう具合に、まったく学ばないときには、じゃ、(顔の前に閉じた扇子を立てて)見えるって言ってるけども、「見える」っていう言葉も知らないですよ、学んでないときは。
でも、言葉を知らないから見えないのかって言ったら、言葉知らなくたって、これが出てきたらこのとおりに見えるようになってるんですよ。それを私たちは、知識としていろいろ学んだから、それを「見る」とか「見える」とかって、学んできたわけじゃないですか。
そういう言葉をつけて、共通理解をしてますけれども。共通理解をする前に、出てきたらそのとおりに見えるはずなんです。こういうのは、<自活動>の様子です。<無条件の活動>の様子です。それほどハッキリしているものに、学んだ知識で「追及しよう」とするから、それでは、そこのところには目が向かないようになる。
「考え方」の方で行ったら、だから、「考え方」を、、、「考え方」っていうものを否定しているわけではないですよ、、、人は「考え方」だってもってますから、考える力をもっています。その力を否定してるわけじゃないですよ。今、本質を知るときには、その「考え方」で「追及する」ってことをしたら、<それ>は手に入らないっていうことですよ。
入らないから、知識としてそれを知りたいから。知りたいから、今、「知りたいという思い」を使って、考えることを、そっちの方向に行かさせないようにしてる、そうじゃないですよって。直に触れているとこだけで生活してくださいって。直接触れているとこだけで。そこが要点なんですよ。ここのところが明確でないと、教えっていくら聞いてても、最初っからズレてしまっている。
50:00 言葉のズレ
同じ言葉を使っているんだけど、みなさんが使っている言葉の中身と違うから、そこもしっかり、すり合わせるわけじゃないけど、話をしないと、そこはズレてたら、わからなくなる。
そして、今のところがハッキリしないと、日常生活どうしていたらいいか、座禅をするってどのようにしていたらいいか、修行するってどうしたらいいかってところが、今のところがハッキリしないとわからないんですよ。
そこは、自分で疑う必要がないほど、もう他にやりようがないっていうとこだけハッキリしてたら、「考え方」の方向でないってことがハッキリしてるわけだから、じゃあ、どうしてるのかっていったら、いきなり触れているところ、、、じゃあないですか。
暑いって言ってみたり、寒いって言ってみたり、痒いって言ってみたり、味だったり、匂いだったり。ね、味だってそうですよ。「おいしい」とか、「まずい」とかって言う前に、そのとおりの味なんですよ。ここが、ここをしっかりしておいて欲しいですよ。
それに対して人は、「おいしい」とか「まずい」とか言って、ね、学んでるから分かれるようになってきます。だから、「おいしい」とか「まずい」とかっていう話の方にスッと行ったらダメなんですよ。その前は、「おいしい」とか「まずい」って言う前は、そのとおりの味わいがしてるってことが、根底にちゃんとあるわけじゃないですか。
51:55 <自己の本質>
<生きてる>って全部、どことったって、そこを抜きにしては成り立ってないですよ。はたして、気がついてもつかなくても、そこは絶対に外れてないですよ。そこが、本当に、人間の学んだ知識の中に「いい」とか「悪い」とか「好き」だとか「嫌い」だとかっていう前の様子が、きちっとあるっていうことを知って欲しいんですよ。
それが、人の生まれたままの本質です。その本質を、たとえば、"生まれながらにして仏さま" っていう言葉がありますけど、生まれながらにして仏さまって言われる理由は、人間の「考え方」のくっついてない世界の話ですよ。
難しい話じゃない、そこで生きてるんですよ、実際に私たちは。だから、そこで生きているんだから、そこは知りたいわけでしょ。<自己の本質>はどうなっているのかって。
それが明確になった上で、「おいしい」とか「まずい」とか、いくらそういうものを使ったって大丈夫ですよ。そういうことが、できなくなる人になるわけじゃない。
より豊かに「おいしい」も「まずい」もわかるし、人間の感情的なものだって、「嬉しいとき」と「悲しいとき」がちゃんとわかるし、今まで以上にそういうものを、きちっと、今まで以上に味わえる人になるんじゃないですか。
だけど、基礎ができていないところに家を立てたらどうなるかって言ったら、下がグラグラっとなったら、いっきに上は崩れるんですよ。だから、私たちは「考え方」でこう、逆三角形に立ってるんですよ。知識だけ過剰で、なんとかこう、ツッカエてるけど、ひとつポーンと外されたら、いっきにグラグラっとなるっていうことは、基礎が全然学べてないってことじゃない。
54:22 仏性のハタラキ
その基礎のところが、今申し上げたように、人間の「考え方」以前の、生まれたまんまの本質、仏さまとしてのハタラキ。
これ、道元禅師の説かれた正法眼蔵っていう 95巻本がありますけれども、その中に、仏性の巻とかってのがあるんです。仏性の巻と、現成公案と、弁道話ってのが、95巻中の、難解中の難解だと、今も、昔も今も言われてきている。
で、その仏性の巻なんかを見れば、今いうようなハタラキのことを仏性と呼び、ね、もう一つ言葉を変えると、それを法の活動だと言ってる。道という言葉も使われています。
仏性のハタラキ、法性のハタラキ、道としてのハタラキ、表現は違うけど中身は同じと言っていいです。だから、私たちは生まれたときから、法としてこの世の中に生まれてきたんです。
法ってのは、私はいつもこういうように伝えています。「法則」、そうしかありえない。(パシッ)この音は他の音に代わることはないようになってる。法則でしょう。そういう活動でしょう、法っていうのは。
絶対に他のものにならないハタラキ。だから、(顔の周りを指して)コノモノが、仏性そのものであり、法そのものである活動だっていうことが、自分で明確になるっていうことを、それを悟りと言っています。
56:31 誰でも悟れる
だから、誰でも気がつけるようになっている。無いものじゃないからね。これから作り上げるんじゃなくて、もともと生まれたときから備わっているものだから。
(閉じた扇子を顔の前に立てて)こっち見てくださいって言っているときにね、あっちむいて、他所を向いてたんじゃわからないわけだから、(顔の周りをくるり)コノモノを知るときに、これが仏性そのもの、法そのものであるっていう活動のところに、きちっと目がむいていたら、誰でも自覚できるようになってますよって、言われているんです。
それで、あなたは絶対やっても無理ですって、そんなことはず~っと言ってません。誰でも条件から外れる人は一人もいませんって。
あとはね、あとは一つだけ。教えられてるとおり、示されてるとおりに、騙されてもいいから、言われるとおりにやるっていうことだけです。実践するってことだけは必修条件です。それだけ、素直に「ハイッ」って言ってやられる人だったら、時間がかかる問題じゃないっていうことだけです。だから、いつでも即座に悟れる人ですよって、ず~っと伝えられてきている。
で、そんなこと言ったって、そんなに、出てなかったって、今の世の中みたって、そんな悟ってる人って、誰でもったって、ザラザラいないじゃないかって言われるけど、それはザラザラいないね、確かに。
ザラザラいない裏には、そんな話も聞いたことがないっていう人が大半です。聞いても知識の範囲ぐらいで終わってしまっている。本気になって言われたとおりにやる人が少ない、っていうことも一つ言えるでしょう。
だけと、そういう人は、今だって、ちゃんと生まれて来てますからね。出家、在家を問わず、そういう人は生まれてきてます。これは間違いないんだっていう証は、いつでもできます。だから、あとは、今お話ししたようなところの、根本的なことをしっかり実践できるまで、、、
実践するってことは、生きてるってことは、全部実践できてることですからね。できてるところに、「考え方」の方で、「探って」るのか、「考え方」を全部離れたとこなのか、ってことだけがポイントですから、「考え方」を離れた生きざまができているところに、気づけるようになるっていうか、ま、気づいたら、つ~っ、つ~っ、って生活しているってことだけです。ね。
これはもう、坐禅するとか、せんとかじゃないですよ。坐禅も当然大事です。だけども、坐禅と日常の生活とを分けて、別のものにしないってことだけです。
(顔の周りをくるり)この体で生きてるんだから、区別できないでしょ。場所が違うってことですよ。
坐禅堂というところで座っているということと、今こうやってここにいるっていうことと、電車に乗ってるとか、バスに乗ってるとか、歩いてるとか、場所は違っています。場所は違いはあるけど、(顔の周りをくるり)これがどこで生きてなきゃ嘘だということはないですからね。全部、24時間全部ですから。
文字起こし by Aki Z
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