井上哲玄老師は、500-600年間に1人と言われ近代の高僧・古仏と尊敬される井上義衍老師を父とし、母・芳恵の長男として龍泉寺に生まれた。そして、哲玄老師は義衍老師の指導法を、その言語表現において、更に現代的に進化させている。
ここに示した【玄暁録】は、哲玄老師がまとめた「井上義衍老師語録」から原文を引用し、筆者がそれに類似した哲玄老師の言語表現を取り合わせて比較検討し、拙いながら、筆者が見た【暁山禅】の解説を付した備忘録である。
今度は、上記引用をバラして、言語表現の違いをゆっくり比べてみることにする。
好き嫌いにかかわらず、さまざまなモノゴトが、縁に従って現象していると、ここはわかり易い。
「迷おうと思っても迷われないのが、今の在りようだ」というが、そんなら我らはなぜ、実生活の中で、いつも迷ってばかりいるのかという疑問は出る。その答えは、「長い間の悪習慣で、一念心がわずかに動くと、すぐに思念に巻き込まれるからだ」と。
私達は、子供の頃に自我が芽生えてから、自我を中心に膨大な記憶を蓄えてきた。この身体の内外から何らかの信号をキャッチすると、その記憶が騒ぎ出して、1分か、3分か、あるいは10分、場合によっては数時間もの思考に巻き込まれてしまう。それを「考え方に落ちる」と言っている。
「立脚地の違い」「凡聖の分かれるところ」「必然性の良薬」は、もう少しわかり易く説明して欲しいところだ。ここに、哲玄老師のやさしい説明を編集引用する。
ここで義衍老師は五感の機能に着目して、「残り物のない生活をしている実物」と言っている。これは、六根のはたらきそのものには、余分なものはついていない、事実そのものの活動をしているということだ。ここは、哲玄老師の六根を中心とする指導法の中に、しっかりと受け継がれている。
上記の哲玄老師の引用中にもあるように、全部の活動が自分の活動であって、それを「考え方」で追及したら、事実からどんどん離れていってしまう。「考え方」の方向で追及しては駄目だ。たとえ、思考の中で見事な答えが見つかったとしても、それは既に事実とは離れてしまっている。
「考え方」の方に行ってしまうと、迷いの世界に捕まってしまうのだと。
ここは、義衍老師と同じように、哲玄老師がつねづね強調しているところだ。
ここで、「実に微妙な、すばらしい人の本来の面目です」というのは、六根に映った、私たちの現前の事実そのもののことだ。微妙なというのは、六根の機能が速すぎて、私たちの普段の意識では追えないということだろう。
「今の各自が触れている事実、その実証が欲しいのです」というのは、哲玄老師の暁山禅そのものでもある。以前の投稿でも引用したが、大事なところなので、ここにもう一度引用しておく。
2024.1.25 Aki Z
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