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【玄暁録】(5) ~義衍老師語録「本来の面目」

 井上哲玄老師は、500-600年間に1人と言われ近代の高僧・古仏と尊敬される井上義衍ぎえん老師を父とし、母・芳恵の長男として龍泉寺に生まれた。そして、哲玄老師は義衍老師の指導法を、その言語表現において、更に現代的に進化させている。

 ここに示した【玄暁録】は、哲玄老師がまとめた「井上義衍老師語録」から原文を引用し、筆者がそれに類似した哲玄老師の言語表現を取り合わせて比較検討し、拙いながら、筆者が見た【暁山禅】の解説を付した備忘録である。


5. 本来の面目(井上義衍老師語録より)

 気に入るものもあるが、気に入らんものもある。あるということは、どちらも問題にならず自分のところに現成している。

 迷おうとおもうても迷われんように出来ている各自の今の在り様です。それ程、はっきりした確かな道があるということです。
 ところが長い間の悪習慣があって、一念心というものがチラッと動くと、それに依って考え方に落ちる。

 それだけ立脚地が違うということです。凡聖の分れるところです。
 事実は同じ生活、同じ生活者。自分自身の全身を挙げての必然性に任せて、必然性の良薬をおあがり下さい。そうすると必ず救われる。

 それが仏法の教えです。自分に持ち合わせておる五つの機能、如実に活動する五つの機能、目、耳、鼻、舌、身、五つの器官を通じ確実に残りもののない活動をしている実物を本当に見てもらう。考え方を捨てて。

 考え方と事実との違い。誤りを起こす根源は、人が気に入る、入らんに関係なくある。その事実から離れて、考えの上で事実を眺める。あるということは、みな自分の消息です。

 初めて聞く、その音が、今、自分のところに直にある。実に微妙な、すばらしい人の本来の面目です。
 こういうことは、考えることでも、理解することでもなく、今の各自が触れている事実、その実証が欲しいのです。

(井上義衍老師語録 pp.17-18)


 今度は、上記引用をバラして、言語表現の違いをゆっくり比べてみることにする。

 気に入るものもあるが、気に入らんものもある。あるということは、どちらも問題にならず自分のところに現成している。

 好き嫌いにかかわらず、さまざまなモノゴトが、縁に従って現象していると、ここはわかり易い。

 迷おうとおもうても迷われんように出来ている各自の今の在り様です。それ程、はっきりした確かな道があるということです。
 ところが長い間の悪習慣があって、一念心というものがチラッと動くと、それに依って考え方に落ちる。

 「迷おうと思っても迷われないのが、今の在りようだ」というが、そんなら我らはなぜ、実生活の中で、いつも迷ってばかりいるのかという疑問は出る。その答えは、「長い間の悪習慣で、一念心がわずかに動くと、すぐに思念に巻き込まれるからだ」と。

 私達は、子供の頃に自我が芽生えてから、自我を中心に膨大な記憶を蓄えてきた。この身体の内外から何らかの信号をキャッチすると、その記憶が騒ぎ出して、1分か、3分か、あるいは10分、場合によっては数時間もの思考に巻き込まれてしまう。それを「考え方に落ちる」と言っている。

 それだけ立脚地が違うということです。凡聖の分れるところです。
 事実は同じ生活、同じ生活者。自分自身の全身を挙げての必然性に任せて、必然性の良薬をおあがり下さい。そうすると必ず救われる。

 「立脚地の違い」「凡聖の分かれるところ」「必然性の良薬」は、もう少しわかり易く説明して欲しいところだ。ここに、哲玄老師のやさしい説明を編集引用する。

 ここで、間違えられることもあると思うんで、もう一つ重ねて申し上げておきますけれども、お釈迦さまが残されたもの、"これはお釈迦さまの教えだ" と、そんなことはどこにも言ってないですよ。

 だから、今、日本に宗派がいろいろあったり、たとえば、私ども曹洞宗ですけれども、曹洞宗の場合は永平寺を開かれた道元という方が元になってます。もちろん、親鸞がいらっしゃるし、法然がいらっしゃるし、日蓮がいらっしゃるし、空海もいらっしゃるし、いろんな方たちがいらっしゃいます。

 その人が説いた教えだっていうふうに、一般的にはみんな理解しています。書物見ても出てきますよ。釈迦の思想だとか、道元の思想だとか。

 お釈迦さんの悟られた内容って、思想でも教えでも何でもないです、実物なんですよ。そこに名前をつけてそこから学ぼうとするから、私は曹洞宗の教えを学んでいます、道元の教えを学んでいますという。それ全部外した方がいい。誰々の教えを学ばせるんじゃない。

 この、自分自身のありようを学ぶんですよ。誰の教えでもない。この自分自身のありようを学ぶっていうことを、今申し上げたような人たちが、自分の体験から伝えてきてるんです、ずっと。そこを間違えると、誰それの教えを学んでるって言いたくなるでしょう。

 たとえば今だと、私たち、井上一派だとか、いろんな表現も世間ではされていますけどね、何も、井上の教えを学んでいるわけじゃあないですよ。仲立ちですからね、中間にいて、それが伝えようとしていますけれども。

 あくまでも、この自分自身のありようって、どういうことなのかっていうことを知る。本当にそれを知りたかったら、知った人がいらっしゃるから、知った人が残されたものがあるから、どうしたらいいのかってことが語られてるから。

 だからこの自分、全活動が自分の活動ばかりですから、この自分から目を離して、この書物を読んでみたり、この人の話を聞くとかね、それ、そもそも間違ってるんですよ。

💛この引用は、哲玄老師の言葉の引用です。
【カフェ寺 2018年9月24日】 のYouTube 動画より


 それが仏法の教えです。自分に持ち合わせておる五つの機能、如実に活動する五つの機能、目、耳、鼻、舌、身、五つの器官を通じ確実に残りもののない活動をしている実物を本当に見てもらう。考え方を捨てて。

 ここで義衍老師は五感の機能に着目して、「残り物のない生活をしている実物」と言っている。これは、六根のはたらきそのものには、余分なものはついていない、事実そのものの活動をしているということだ。ここは、哲玄老師の六根を中心とする指導法の中に、しっかりと受け継がれている。


 考え方と事実との違い。誤りを起こす根源は、人が気に入る、入らんに関係なくある。その事実から離れて、考えの上で事実を眺める。あるということは、みな自分の消息です。

 上記の哲玄老師の引用中にもあるように、全部の活動が自分の活動であって、それを「考え方」で追及したら、事実からどんどん離れていってしまう。「考え方」の方向で追及しては駄目だ。たとえ、思考の中で見事な答えが見つかったとしても、それは既に事実とは離れてしまっている。

 「考え方」の方に行ってしまうと、迷いの世界に捕まってしまうのだと。
ここは、義衍老師と同じように、哲玄老師がつねづね強調しているところだ。

 初めて聞く、その音が、今、自分のところに直にある。実に微妙な、すばらしい人の本来の面目です。こういうことは、考えることでも、理解することでもなく、今の各自が触れている事実、その実証が欲しいのです。

 ここで、「実に微妙な、すばらしい人の本来の面目です」というのは、六根に映った、私たちの現前の事実そのもののことだ。微妙なというのは、六根の機能が速すぎて、私たちの普段の意識では追えないということだろう。

 「今の各自が触れている事実、その実証が欲しいのです」というのは、哲玄老師の暁山禅そのものでもある。以前の投稿でも引用したが、大事なところなので、ここにもう一度引用しておく。

 結論はここです(閉じた扇子で机をパシッ!)、ね、これ(扇子を振って聴衆を指しておいて)<今の生きざま◦◦◦◦◦◦>の私です、<今の生きざま◦◦◦◦◦◦>の(パシッ!)、ここ結論ですよ。

 これ、「考え方」で、『何を言わんとしてるんだ』とか、『なんの意味があるのか』とかって、それは人間の「考え方」についての話じゃないですか。

 <この実物>を(パシッ!)、パシッとこれだけなんですよ。明確じゃないですか。

💛この引用は、哲玄老師の言葉の引用です。
【カフェ寺 2018年9月24日】 のYouTube 動画より

2024.1.25 Aki Z


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