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【玄暁録】(4) ~義衍老師語録「任せる」

2024.11.25 更新

 井上哲玄老師は、500-600年間に1人と言われ近代の高僧・古仏と尊敬される井上義衍ぎえん老師を父とし、母・芳恵の長男として龍泉寺に生まれた。そして、哲玄老師は義衍老師の指導法を、その言語表現において、更に現代的に進化させている。

 ここに示した【玄暁録】は、哲玄老師がまとめた「井上義衍老師語録」から原文を引用し、筆者がそれに類似した哲玄老師の言語表現を取り合わせて比較検討し、拙いながら、筆者が見た【暁山禅】の解説を付した備忘録である。

4. 任せる(井上義衍老師語録より)

 任せる。「任せる」ということは、自分のほうから、何かをすることではないのです。

 (打掌して)「ポン」これが耳に任せたという状況です。「ポン」これは耳に任せているということです。音がするだけです。

 聞くとか、特別何かをするような気配はない。耳という道具自体に任せるということは、このように音がしたから聞こえるだけです。六根(眼、耳、鼻、舌、身、意)という、この道具立て自体に全部任せてしまえばいいのです。

 道具立てというのは、この身体の機能のことです。眼は、ものが見えるように出来ている。耳は、音が聞こえるように出来ている。鼻は、香りが分かるように出来ている。舌は、味がするように出来ている。身体は感触がするように出来ている。意、つまり心はものが思えるように出来ている。

 それを全部、それ自体の働きに任せておく。自分で、自分の好き嫌いで使うことをしないのです。

 すべてが、その通りにあるだけです。それが修行の着眼点です。今、ある。そのものによらなければ、そのものは絶対に分からない、という基本的な勉強の仕方を忘れているんじゃないですか。

 自分自身というものを本当に知りたかったら、自分自身に向かう以外にない。古今東西の聖人たちが、必ず歩んできた道です。

(井上義衍老師語録 pp.15-16)


 今度は、上記引用をバラして、言語表現の違いをゆっくり比べてみることにする。

 任せる。「任せる」ということは、自分のほうから、何かをすることではないのです。

 (打掌して)「ポン」これが耳に任せたという状況です。「ポン」これは耳に任せているということです。音がするだけです。

(井上義衍老師語録 pp.15-16)

 (打掌して)「ポン」、この活動を見よ、というのは、禅録などでもよく出て来るやり口である。この手法は、哲玄老師の法話においては、つねに説法の構成の主軸となり、暁山ぎょうざん禅の核となる指導法として、フルに活用されている。

 ただ、哲玄老師の場合、この打掌は単発では終わらない。ポン、ポン、ポン、ポン、やたらと連発する。

 そのポンとポンとのハザマに、ほら、これ、これだよ、これ聞いて、と言わんばかりの合いの手を挟んで、そのポン、ポンの方向に、聴衆の耳が自然に向かうように仕向けようとしている。

 義衍老師が哲玄老師のように、音の連発を多用していたのか、いないのか、そこは、筆者はまだ確認できていないが、いずれにしても、この連発打音の活用は、暁山禅の一番の特徴といえると思う。

 もう一つ、哲玄老師の場合、この「ポン」という打掌のデモンストレーションの後に、必ず、「音が消えた後にはもう、跡かたもない。どっこにも残らないようになっている。」と付け加える。

 「ポンと鳴ってポンと聞こえる」というだけだと、それは、「ああ、五感のハタラキだよね」ってことで、科学的に理解されてしまう。そのような「考え方」の上での理解に留まることを、哲玄老師は許さない。

 哲玄さんは、

 「音が消えたときにどこにあるんですか? どっこにも、何もないじゃないですか。(顔の周りをグルリと指して)自分の生活として。影も形もないようになってるじゃないですか。」

と解説する。

 跡形あとかたがない、没蹤跡もっしょうせきの重視、これが、暁山禅の第二の特徴と言えると思う。

 事実は今だけしかない。過去や未来というものは、記憶の中、思考の中にしかないということを、これで実感させようとしているようだ。

 <今此処いまここ>の活動だけが<事実>なのだと。この<今の活動体>に用があるのであって、それについての「考え方」の方向、思考の方向に、逸れて行っては駄目だということを、暁山禅は、特に強調する。

 聞くとか、特別何かをするような気配はない。耳という道具自体に任せるということは、このように音がしたから聞こえるだけです。六根(眼、耳、鼻、舌、身、意)という、この道具立て自体に全部任せてしまえばいいのです。

 「音がしたから聞こえるだけ」というと、やはりまだ、普通の五感の説明のように、理解されてしまう。

 哲玄老師は、これをもっと丁寧に、「聞こえている時には、音ですらない」と言います。それだけ、六根ろっこんの直覚性を、しっかりと厳密に捉えているというか、精密に表現している。

 道具立てというのは、この身体の機能のことです。眼は、ものが見えるように出来ている。耳は、音が聞こえるように出来ている。鼻は、香りが分かるように出来ている。舌は、味がするように出来ている。身体は感触がするように出来ている。意、つまり心はものが思えるように出来ている。

 ここもまだ、普通の仏教書の六根の説明の域を出ていない。六根の「機能」の説明はしているが、哲玄老師のように、この<機能>こそが<人間の本当の生きざま>であるとまでは、たいして強く、主張してはいない。

 それを全部、それ自体の働きに任せておく。自分で、自分の好き嫌いで使うことをしないのです。

 「それを全部、それ自体の働きに任せておく」、説明の要旨は同じだが、表現がまだザックリしている。

 哲玄老師のは、ただ「任せる」とだけ言うのではなく、

 「こうやって聞こえたときに、このときには間違いなく、(パン!)このとおり、パン!っていう活動をしたんですよ。」

と、表現が実に具体的で、いきいきしている。

 すべてが、その通りにあるだけです。それが修行の着眼点です。今、ある。そのものによらなければ、そのものは絶対に分からない、という基本的な勉強の仕方を忘れているんじゃないですか。

 「それ自体の働きに任せておく」とか「すべてが、そのとおりにあるだけ」と言っている。

 哲玄老師は、

 「すべて、見えるという物の存在も、聞こえるっていう音の、声の存在も、匂いも、味も、身体の感覚も、ことごとく、この(顔の周りを扇子でくるりと指して)、私というコノモノの生活の上に全部あることだっていうんです。そこが一番最初のポイントです。」

 哲玄さんは、<コノモノ>という表現で、<現前の実動>をじかに指差している。一見して漠然とした表現に見える<コノモノ>は、悟りの実相を実に正確に、端的に捉えて、それを、とても丁寧に表現していると思う。

 自分自身というものを本当に知りたかったら、自分自身に向かう以外にない。古今東西の聖人たちが、必ず歩んできた道です。

 ここの冒頭の「自分自身」は普通に言う「自分自身」として読んでいいと思う。だが、2番目の「自分自身に向かう以外にない」という、その<自分自身>は、「自我観を核とした思考の中の自分自身」ではない。

 そのことには注意が必要だし、哲玄老師の場合は、このような言葉の使い分けは、丁寧に、綿密に行い、誤解を避けるように工夫しているように、筆者には思われる。


 哲玄老師の言葉はいつも「やわらかい」が、正法を<このものの事実>として打ち出す言語表現には、これまでの禅匠をはるかに凌ぐ、綿密な、言葉の工夫の跡が見て取れると思う。

2024.11.24 Aki Z



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