井上哲玄老師は、500-600年間に1人と言われ近代の高僧・古仏と尊敬される井上義衍老師を父とし、母・芳恵の長男として龍泉寺に生まれた。そして、哲玄老師は義衍老師の指導法を、その言語表現において、更に現代的に進化させている。
ここに示した【玄暁録】は、哲玄老師がまとめた「井上義衍老師語録」から原文を引用し、筆者がそれに類似した哲玄老師の言語表現を取り合わせて比較検討し、拙いながら、筆者が見た【暁山禅】の解説を付した備忘録である。
今度は、上記引用をバラして、言語表現の違いをゆっくり比べてみることにする。
何があっても、善いとか悪いとかいう思念に巻き込まれず、そのまま捨ておけば、次第に、何があっても気にかからなくなる。この部分は坐禅を修するうえでの心掛けを示している。参考に、哲玄老師が同様に坐禅の心掛けを語っている動画があるので、下記に編集引用しておく。
哲玄老師の説明は、いつも、日常の言葉で、どこまでもやさしく語られている。
義衍老師の語録に戻ろう。「穏やかになって、事柄のみがある。」これは、自我観に捕まる前の、<今の事実に生きている自分の在りよう>を言うのだと思う。
これは、師家に独参する過程での、目安としての修行の段階の話で、いわゆる「気づき」と「大悟徹底」の違いを説明している。禅の修行の段階では、「見性と悟り」の違いとして説明されるところの、悟りの前段階の単なる「気づき」と、「大悟徹底」とを区別する、重要な判断基準のことだ。
晩年の原田祖岳の門下では、まだ悟りとも言えないちょっとした気づきに触れただけの者も、見性の印可を与えてしまっていたように伝えられている。哲玄老師によると、それではまだ不十分なのだというのである。
完全なる没我により、自我という認識者が微塵も残らない、通底を脱した者のみが「大悟徹底」の印可に値するということだ。
ここは、正法としての禅を理解する上でとても重要なので、哲玄老師の YouTube動画での解説を引用しておきます。
つづいて、悟る前と悟った後について、義衍老師は以下のように説明する。
これも、単に見性前の、わずかに無我の体感を得ただけの「気づき」の段階との区分けが難しいが、わずかに垣間見た「気づき」を経験しただけの修行者でも、無目的とか、無功徳の境涯は、感じ取れるようになるものと思う。
義衍老師は「悟る前の様子と、悟ってからの様子が、いっぺんに完成するような方向」と言っているが、道元禅師の「脱落身心」の自覚を言うのだと思う。
義衍老師は「いっぺんに」というが、哲玄老師の場合はもう少し丁寧に、「悟る前から、人間はみな、もともとそうなんだ」という説明に徹している。ここも少し、哲玄老師の丁寧な説明を編集引用しておく。
赤子のようにというのは、禅門ではよく説かれることだが、ここに、哲玄老師の解説を編集引用しておく。
2024.11.24 Aki Z
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