不生禅トライアル 30日で何人わかるか
こんにちは。鈴山です。
盤珪禅師の教えはシンプルで、まずは30日間、身びいきや、怒りや不安、疑い、欲などの念を出さずに「不生の仏心」でいなさいと指導します。そして、「不生で一切が調う」と断言します。まず、今宿葦さんの現代語訳から、盤珪禅師の一番大切なアドバイスを引用します。
30日間、ただ思念を静めるようにしてみてください。いえ、必要なことは考えて大丈夫です。仕事ができなくなったり、家に帰れなくなっては困ります。生活は普通にしていて、ただ、身びいき、怒り、欲、愚痴、疑い、そうした念を出さずにいるだけです。今日から初めまして、30日後には、このブログをお読み頂いて、真摯に不生に向き合った皆様の中で、百人に一人くらいは、直ちに禅の気づきを得る人が、出てくる可能性があると思います。
何故そんなことが言えるのかというと、私たちは誰もが、生まれたときに不生を体験しているからです。ただ、忘れてしまっています。自我の芽生えとともに、二分性の知性が、あらゆる事物を対象的に捉えて世界を覆い尽くし、すべてを分断してバラバラに見るようになっているのです。生まれたときの本来の覚は主客未分です。動見未分の現前です。世界は自分と不二の関係にあります。そして、不生禅は、かつて知っていた、この「覚かる」意識を思い出すだけなので、本当に取り組めば、思い出せるのかもしれません。
もう一つ、結局は、禅というのは「莫妄想」に尽きます。妄想なし。座禅は妄想を静めるため、念仏も余分な思考を静めるため、ヴィパッサナー瞑想のラベリングも、妄想を静め、現実に心を向けて思考を静めるものです。臨済の一喝も、徳山の一棒も、思考を瞬時に静めるためで、これらは「不生」の一句子と同じです。本当は30日も掛かりません。ただ、人はなかなか至心にはなれないので、至心になる癖をつけるために30日を猶予しているもののようです。
盤珪禅師は自分を信じろと言っていますが、そんなに信じなくても大丈夫です。信じれば、かえって、その信念が思考になってしまいます。盤珪を信じない人も、たった30日のお試しなら、やってみる価値はあるのではないでしょうか。30日で、「見るものが動くもの、動くものが見るもの」がわかったという方がぞろぞろ出てきたら楽しいですよね。長く座禅を続けてきた方などは、案外すぐに片づくかもしれません。これは、要するに受動的注視といえそうです。真摯さは必要ですが、座禅より手軽ですよね。
それで、不生に達したかどうか、それは、長く悩まされてきた心労が、さっと解けたかどうかで自分で分かります。勘違いかもしれませんが、私の苦悩は消えました。グズグズ思い悩むことは、もうありません。といっても、生活の上での課題は消えませんし、煩悩は沢山残っています。まあ、少しは減ったかも。とにかく、無駄な心労はかなり萎んだようです。知性自身が、知性は仮のもの、思考は仮のもの、妄想は仮のものであることに気づいて、苦悩は分別上の根を失い、自然に消散することになります。先のことは解りませんが、今は楽ですね。
まあ、騙されたと思って試してみては如何でしょう。私を信じる必要はありませんが、盤珪さんがそう言うのですから、きっと何かあるのだと思いませんか? 皆様からの朗報を、楽しみに、お待ちしております。
Aki Z