第16回「そいつ」2024年1月❸
週一で、同じ映画を見る。ただそれだけ。
観る映画は「遊星からの物体X」、つまり「THE THING」です。
ルール
毎週1回「遊星からの物体X」をみる
毎週1回みて、気づいたことを書く
木曜または金曜の通勤時間で見る
ネタバレとかは気にせず書く
基本は通勤中のiPhone se(3G)。
イヤホンはAppleの有線イヤホン。
ということだったが、最近はもう気にせず休みの日に家で見ることも増えてきた。気にせず楽しみながら観る。
第16回目 2024/1/27(日)
前回からの道のり
(前回の記録からわたし自身の変化)
1/22(日)
前回の記録まとめるのにめちゃ時間かかる。
1/23(月)
一旦勉強から解放されて、浮かれたように本が読める。大泉黒石の「俺の自叙伝」、とんでもない本だった。もう一度読み直したい。
大泉黒石についてはwikiを参照されたし。
1/24(火)〜26(土)
ストレンジャーシングスみたり、友人から借りた本を読む
1/27(日)
アキ・カウリスマキの「枯れ葉」を観る。ありがとう、これからもよろしくお願いします。本当は哀れなるものたちとかを見ようかと思ってたけど、カウリスマキを噛み締めたくてやめた。
帰宅して物体X。(ベツバラ)
聞くという行為
カウリスマキの映画を見ていたら音楽を聴くシーンがあいかわらず印象的だった。聞くって面白い気がしたので、今回は聞いてるシーンを考える。ここ数回の記録は移動、開閉など、稚拙な人類学みたいになっていて映画評には一切なっていないとは理解してる。でも、こういう映画で当たり前に観てることを何回も見た映画でやり直してみることが大事。
聴くシーンをとにかく書き出してみるが、基本的には会話によって話は進展するので、常に映画内人物は聞くことをしている。会話シーンまでどんなふうに聞いてるかを書き出しても大変なので、特徴的だと感じるところだけを書き出してみる。
聞く人、映画の音を聞く観客
マクレディのチェスゲームとの喧嘩や娯楽室の隊員、機械を整備するチャイルズ、静かなそれぞれの時間に、少しずつ忍び込んできたのはプロペラ音と銃声。マクレディをはじめ、隊員たちは音に驚き外に集まってくる。
その発生源に目を凝らして、ありゃなんだ?と問いかけ合う隊員。
向き合った人間との会話と異なり、遠くの音は視覚情報が伴わない。その音が言語でもないならば、なおさら情報は減る。だから映画内人物は必死に耳を澄まし、目を研ぎらす。
映画をもう少し巻き戻してみる。まさにこの映画の始まりでは、すでに観客の我々は同等の体験を済ましている。物語の始まり、まだ画面にはハッキリと映らないプロペラ音によって、何かの到来を知らされる。
一方で、われわれ観客は、カメラのおかげでいとも簡単にヘリへと接近し、音の発生源を種明かしされる。
当たり前のことだが、観客の「聞く」と映画内人物の「聞く」は異なる。なんならモリコーネの劇伴による盛り上げだって、映画内人物には一切関わりがない。(観客と映画内人物の体験はイコールではない)
ここに注意しながら、映画内人物がなにを聞いているか考えていかないといけない。
今回のヘリの音は映画内人物にとって、遠くの記号であり、違和感の始まりであった。そしてそれは何かの到来へとつながる。
遠くの音に耳を澄ます
遠くの音は、どうしても情報量が落ちる。視覚情報が抜け落ちてるから、その音が何物か判断するのは難しい。
しかし、「なんの音かわからない」ということは、意味を持たないわけではないだろう。むしろ、なんの音かわからないこそ、不安は生まれるし、確かめにいかないといけない。
プロペラ音と銃声を室内で聞いた人間は、それは何に乗って、何に向かって撃つ銃声かもわからないが、「ただ事じゃない」という意味を持つ。ただ事じゃない何かが向かってきてることを予感させる。
音は、物語の訪れでもあり、物語へのお呼ばれでもある。呼ばれた人間は音を確かめにいく。人間が物語を運ぶために行ったり来たりするのには物理的に限界があっても、一方で音は簡単に境界線を越える(壁越しに聞こえるなど、遠くまで物語を運ぶ)。
遠くの物語に映画内人物が間に合うためには、境界線を越える「お呼ばれ音」がなければ無理だ。
お呼ばれ音、また意味不明な言葉を造った。
犬小屋で騒ぐ犬の音、ブレアが壊したヘリの音、ブレアが通信室で撃つ銃声。どれもその場にはいない人間たちを「ただごとじゃない」と呼び出して、こちらに向かわせる。
呼び出し音はその本意を教えてくれない。間に合わない人間は捨て置いてしまうことすらある。
もちろん、強力な呼び出し音もある。本当の呼び出し音、つまり非常ベルである。聞こうとしない人間を目覚めさせるためには、無理矢理にでも聞かせる必要がある。
非常ベルは、なにが起きてるかは伝えるのではなく、「ただごとじゃない」そのものを表象する音にすることを目的にしてる。ここまで純粋な呼び出し音はない。非常ベルが鳴れば、だれもが音を聞くハメになり、「ただごとじゃない」ということだけは理解する。
しかしまあ、ほとんどの音は聞き逃してしまうようなものだ。耳を澄ましておかないと物語に置いてかれてしまう。何かわからない音、呼び出し音を聞き逃さぬように、映画内人物は耳を澄ましている。
(以前からもやもやしてたけど、犬の遠吠えも観客だけがその理由知っている。まだ何も知らないマクレディは、遠吠えをうっすら聞いただけで、非常ベルを鳴らしてたが…そんな簡単によかったんか。いつもモヤッとする。
聞き流すということ
本作の劇中で流れる歌については、数回前のBGMの回でも取り上げた。
❶Stivie Wonder/Superstition
❷Billie Holiday/Don’t explain
❶スティービーについては、ノウルズのキッチンから。❷ビリーホリデイについては娯楽室内で流れてる。
❶については、「迷信だ=superstition」という歌詞が、このあとの信じがたい出来事に対する隊員たちの対応を暗示している。
ここでは観客と映画内人物とが同じ音楽を聞いているにもかかわらず、記号から捉える意味がそれぞれ異なっていることがわかる。
つまり、隊員たちにはこの暗示されている意味を知る術がない。聞き込んでいたところで、気づくことのできない情報だ。
全く異なる映画との比較になる。最近見たものから抜き出すと、カウリスマキの映画を見てると劇中歌がどれも映画内人物の心情に大きく作用しているように思える。そう感じるのは、どの歌もラジオやバンドなど、その場でまさに鳴っているためだろう。
歌う人間の感情の吐露、または聞いてる人物が自らの心情への気づき。音楽を聞くことを通して、映画内人物はまさにこれらを体験している。
ただし、この音楽への接し方というのは、濃度があって、人によって異なるだろう。特に物体Xでいえば、ノウルズは気持ちよく仕事をしたいから音楽をかけるし、娯楽室も気持ちのいい雰囲気作りのために音楽をかける。
「聞き入ってる」わけではない。自分の心情を表現しようとしてるわけでもない。
その音楽の歌詞やメロディのなかから意味を読み取ろうなんぞはしていない。
なぜ音楽を聞くのか。強いて言えば、音楽以外の音、つまり聞きたくもない音、または感じたくもない静寂をかき消すために音楽をかけているように思う。
空間を「音で埋めたい」のではないか。
劇伴のモリコーネを抜きに考えると、この映画は基本的に会話と嵐の音以外はあまり聞こえない。静かにすれば、つねに退屈で、そして危険と背中合わせな環境であることに気付かされる。
ある意味、音楽を流していられるのは、安全な基地の中なら耳を澄ます必要もないからで、危険な音なんて音楽で埋めてしまいたいからかもしれない。
一方で、音楽も聞き流せない人はいる。怪我を負ったベニングスだ。怪我を負ってイライラしているから漏れてくる音楽はノイズに変わる。同じ音楽でも「聞き流せない」というのは、本人のメンタル状況にかなり大きく左右される。
耳を澄ますとは対照的に、余裕がある人間は静けさを音で埋める。
この行為を、物語からのお呼ばれ音の拒否ととらえれば、「音楽と一緒になにもかも聞き流す」行為とも言える。聞き流すには、心の余裕がなければできない。こんなことは、神経質な状態、または警戒心のある人間にはできない。当たり前だが、作品は犬THINGの一件から音楽をかける人間は消える。
静けさに耳を澄ます
耳をすませばいつでも何か答えが聞こえるわけではない。むしろ聞こえないから耳を澄ます。例えばそれは「応答」だろう。
本作では、人間が暗闇に向かって呼びかけるシーンがいくつかある。例えばノルウェー基地にたどり着いた時、マクレディは玄関から「スウェーデン」と呼びかける。返事はない。
上述の通り、異音が物語の呼び出し音であるわけだが、静けさはどうだろう。呼びかけた声は、壁を越え、誰かに届き、誰かにとって呼び出し音となる。
そう、呼び出し音は応答を求める。聞いた人間は、こちらに「くる」か、「呼び返す」かするべきだ。
「応答がない」ことは、意味がないということではない。むしろ、いるべき人間がいない、または、応答すべき人間が応答できないことを指す。
「応答がない」時間は、耳を澄まさないといけない。ただし呼び出し音と違うのは、その先の物語に辿り着ける保証が何もないことだ。ウインドウスはこのことをすでに知っている。彼はずっと通信室から無線で呼びかけて、応答を待ち続けている。応答のなさ、にもはや変化はなく、諦めて眠りこけている。耳を澄ますことをやめた彼だけでは、自身の手でノルウェー基地の異変という物語に辿り着けなかった。
聞こえないからこそ耳を澄ます、という行為は、無駄骨に終わることも多々ある。
(それは映画内人物にとって無駄骨であっても、観客はシーンとの連なりによって、意味を見つけているかもしれない。)
結局ウインドウスは応答のないうちに、諦めて居眠りをする。怒ったギャリーはボリュームをあげ、大音量のハウリングでウインドウスを起こす。静寂に耳を澄ませ、と怒ってる。
お前だけに聞こえる音
映画内人物が動き出すこととなる原因の音や声、つまりは聞いた音は基本的に観客も聞いている。むしろ、観客は映画内人物よりもたくさんの音を聞いている。劇伴や、効果音である。
しかし唯一、観客だけ聴くことができない音がある。
ブレアが聞いたという幻聴。当たり前だがこれだけは聴くことができない。聞くという行為は、なにも音が鳴ってるものだけでは無さそうだ。
映画にトリップ描写なんて腐るほどあるように、幻覚・幻聴を表現することは出来るだろうが、いうまでもなく、本作はそんな映画ではない。それは観客が聴く必要がない音だ。
疑心暗鬼のサスペンス映画である本作で考えてみれば、映画内人物同士も、観客もどこまで「同じ体験をしているか」というのは、この後の未知に立ち向かうには重要なことだ。
同じ音を聞く、ということは一つの信頼を生んでいるようにも思う。
映画内人物は、一つの音に対していくつもの反応を取る。しかし、自分に聞こえない音を聞く人間は信用できないし、いざという時に別の音で埋まってしまって、耳を澄ますことができない。
さらには、観客にとって、観客と同じ音をきく映画内人物にこそ信頼を置く。観客はその音の正体を知っていれば、安心して見届けられる。一方で、未知の音を聞いた時は、同じようにその未知の音を怖れてる映画内人物を共感してしまう。
数秒前の自分の声
ここまで見た遠くの音というと、空間的な遠さになるが、時間的に離れたところへ音を残すこともできる。マクレディがカセットテープに残した声のことだ。
自分たちが全滅する可能性を理解している彼は、ここから音が届く範囲には呼び出せる人間などいないことを知っている。彼は誰かにこの声を残し、聞いてもらいたがっている。
しかし、カメラ前でこの残された音、つまり過去の音を聞く人間はいない。
いや、正しくはマクレディだけだ。
マクレディは自分で録音したテープを巻き戻し、聞き直す。数秒前の自分の声を聴き、もう一度巻き戻して、上から録り直す。
自分の声を聞くことで、誰かに聞かれるということを意識する。自分の声を聞くことで考えがあらたまったり、驚いたりする。
ふと思えば、この作品ではあまり鏡を通して自分の顔を見ることがない。
かわりにマクレディは自分の声を聞いて、自分の考えを理解しようとしてる。耳を澄ますための音は、他者ばかりではないらしい。
来週に向けて
今回もまた、下手くそ学問を書いてしまった。でもま、なにかの一歩前進ということに。
毎週恒例のアイデア書き足し。
音無し鑑賞
光のことをもっと考える
顔、その視線
マップ使いながら視聴
カメラの位置
BGMの特定
別の言語の字幕/吹替
そろそろ原作読む
物語に駆けつけるキャラ
そろそろオーディオコメンタリ分析
運ぶ人
小道具などの記号
立場の逆転
無理だったら普通に楽しむ。
好きな映画のいいところは、普通に楽しめることだと思う。