-戦争と混乱を⽣き抜いた⽇本定住カンボジア家族の物語と記憶-No,4
みなさま、こんにちは。
前回のあらすじはこちらから。
今日のnoteは、タイの難民キャンプでの孤立や青春時代の苦悩と成長、両親との関係、そして、なぜ私が30年住み慣れた日本を離れてカンボジアで生活しているのかを少しお話ししますね。
(キム・ハク氏写真展のセッショントーク3にてお話ししてます。内容を少し変えてあります)
その前に「Stand.fm」ラジオ配信のお知らせ。
人前に出ると極度な緊張と自分の無知加減に嫌気がさして、
其れらを克服するため、またカンボジアを皮切りにコンテンツを広げたいと思ってます。
ゆるりと聞いてくれたら嬉しいな。
-人生の履歴書-
自己紹介
では、少しだけ私の自己紹介をさせてくださいね。
私の名前は「そくあん」といいます。
これね、本名なの。
生まれはタイのカオイダンキャンプで、現在はカンボジアシアヌークビルで小さなアパートと民泊/Aiabnbを運営しています。家族は夫と3人の可愛い三姉妹がいます
時系列
独自の道の探求
難民として日本に受け入れられた経験や、新しい環境での苦労や成長、心の悩みを抱えていたこと、差別やいじめといった困難も経験しましてね、このnote で私の経験や葛藤について理解していただけるだけでも、嬉しいです。
写真と合わせて読んでくださいね。
私のドラマカーブ
次のような8つの段階で構成されています。
最初の段階では学校が世界の中心であり、心の傷を負う出来事が多くあり、また12歳の時に家族でカンボジアに帰るという出来事が大きく人生を変えます。
中学、高校生に進学し、学校が小さな世界であることに気づきましたが20歳頃に転機が訪れます。
結婚、出産、子育て、移住、そして挫折という経験が続きました。
母親の死と父親の再婚に余生のこと、そして再び2016年に移住を決断して現在は7年目になります。
そくあん誕生
当時、母親は24歳、父親は27歳で難民キャンプ内で出逢い結婚をしました。
両親は3人の子供に恵まれます。
日本定住前の勉強
日本政府は1979年7月にインドシナ難民の定住受け入れを決定し、調査団が派遣され身辺調査や健康診断を行ったあとに定住先が決まります。
最初のnoteにも書いてます。
その時、母が腎臓病を患っていたことがわかり、治療の優先枠として日本への渡航が許可されます。
この写真はカオイダンサイトからパナ二コムサイトへ移動して日本語学習をしている様子ですね。
日本に定住する子ども
カオイダンサイトからパナ二コムサイトに移動して日本への渡航を待っています。写真をみるとなんとなく面影が残って記憶している人もいますが
いまは全く分からないですね。
昔はね、よく逢っていたんですけどね。
難民受け入れ総計
最終的には第101期生まであり、合計2641人の難民が受け入れられました。
ただし、大和定住促進センターのみ。
(その内訳はカンボジア出身が1217人、ラオス出身が857人、ベトナム出身が567人)
勉強に取り組む両親
施設に入所すると簡単なオリエンテーションが始まりましてその後、約2ヶ月目からおよそ4ヶ月間という短い期間で日本語教育を受けます。
この期間に実際的な学習能力を身につけ、日本社会に適応する必要があります。
その後は、職業相談が行われ、適合する就労先が見つかれば退所します。
入居者のカリキュラム
修了式
一通りの日本語学習カリキュラムを終えて12月に修了式を迎えます。
みなさんの笑顔が素敵ですね。就職先が決まって人から退所していきます。
就職先県別グラフ
就職が決まった難民者は次の定住先へ移ります。
統計データによると、「神奈川県が多い理由は、県営団地の存在とそれらの近くにある工業団地で働くく影響」もあるとのこと。
今日はここまでにしますね。
次章は-戦争と混乱を⽣き抜いた⽇本定住カンボジア家族の物語と記憶-No,5 写真を使って私の人生ドラマの続きです。
最後まで読んでくれてありがとうございます。
SOKOEUN