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記憶の記録7

小さな村の中だと、どうしても人間関係が絡まっていく。外に広がらないからだ。
些細な噂も、本当なら知られたくない家庭事情も、いつの間にか村中の人がなんとなく知っていたりする。それは致し方の無いことだと思う。あんなところに村が出来た経緯を考えれば当然のことだし、自分たちの身を守るためには必要なことだった。その状態が安心だと言う人もいるし、外向的な人ならば特に苦痛でもないだろう。

私が住んでいた小学2年生~小学4年生の夏休みまでの間、私自身はそういった人間関係の大変さみたいなものは感じなかった。
何も考えなくていい呑気な子供だったし、特に私は子供っぽかったようだ。都会や世の中にあまり興味が無く、目の前の日々が楽しかった。
小学校の高学年や中学生になると外への興味が強くなり、早く出ていきたいと思う子供が多かったようだ。高校は村には無いので、山を下りて下宿や寮で生活し通うしかないから、外へ興味を持つことは必要だったのかもしれない。

いつだったか、どんなタイミングで言われたかも忘れてしまったが、引っ越した後にふと思い出したことがある。ひとつ上の学年の友達からだった。
「今度は私なんだよね、○○(私のあだ名)が引っ越さなかったら○○だったのに」というような内容で、沈んだ顔をしていた。
近所に住む中学生のお姉さんの言動や、他の友達の話を鑑みて、もしかしたらいじめの対象が順番だったのではないか、リーダー格の子供たちが決めているのではないか、とぼんやり思った。

今の学校や職場というのもそうだが、人間はある程度の集団が形成されると、”大多数”に所属しない人間が無意識・意図的を問わずはじかれることがある。大方”普通というカテゴリーに入らない人間”が対象になる訳だが、小さな村だとその母数も少ないし、みんな”普通”だったりする。そのため期間を決めて、意図的にいじめの対象を作っていたのではないかと思った。
今ならばいじめであるとされることでも、当時はそれが当たり前であったし、責めることはできない。
それに今だっていじめは無くならない。猿だった頃からの人間の成り立ちを考えれば、そういう生き物なのだから仕方ない、とも思ってしまう。だからと言って肯定することでもないし、推奨するなんてもってのほかだが。
ただ、今はそういったことが村から無くなっているといいなと思う。

小さな山奥の村ならではのもの、というのは、そこに居なければ分からないものなんだよな、としみじみと振り返った。

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