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記憶の記録8

記憶のほとんどが”楽しい”で埋められた山奥生活は、突如終わりを迎えた。
小学4年生の夏休みに引っ越すことになった。理由は聞かされていなかったのか、記憶にない。
引っ越す前後の記憶はほとんどないのだ。よほど嫌だったのかもしれない。

引っ越し先は神奈川県厚木市。
なだらかな丘を切り拓いて住宅街が造られていたようだった。格子状の道路が走り、ほとんど同じ広さの建売住宅が並んでいた。
今で言うところの”〇〇タウン”みたいなところだった。真ん中あたりに公園があり、端のほうにはグラウンドがあった。やたら金木犀が多く、香りが漂う時期は外を歩くのがつらかった。ちょっとお金持ちの家が外れにあった気がする。
自然大好き、自然が造ったもの大好き、だった私には、人工的な街は気持ち悪かった。決して街が悪いわけではない。私がただ、受け入れられなかったというだけだ。
それでも日々の生活は待ってくれないらしかった。

これが、明るく楽しい日向の子供時代から、陰鬱で苦しくつらいどん底の子供時代への転換点となった。

夏休み中に新しい学校へ挨拶に行った。必要な学用品を受け取り、担任と顔を合わせる。
いわゆるエリートっぽく、頭のいいお嬢様なんでしょうねという感じの、恰幅がよく化粧の濃い女性教諭だった。以前の学校にはいなかった”強い”タイプで怖かった。
登校初日。ひどく緊張した。
学校のことで覚えているのは、手芸クラブに入ったことと、音楽の時間は楽しかったことだけだ。
クラスメイトは5人から40人超になった。誰が誰か覚えられない。
同じクラス内なのにグループが出来ていて不思議だった。みんななんとなく垢抜けていて、着るものを気にしていて、流行のドラマや音楽の話をしていた。何も理解できなかった。

リーダー格のような気の強い女の子がいた。私も背は高い方だったが、その子も同じくらいで、顔がパグに似ていた。悪口ではない。一番分かりやすいのがパグという例えなだけだ。
その子と取り巻きで形成されたグループによく絡まれた。本人たちは田舎から来た転校生を世話してやろうというつもりだったのかもしれないが、私はとまどいしかない。学校に行くのが嫌になった。
ある日、今回の引っ越しで初めて与えられた3畳の自分の部屋で、数種類のジュースを混ぜる、という遊びが始まった。ものすごい匂いになった。吐物のように臭くて私は笑えなかったが、彼女らはゲラゲラ笑っていた。私も仕方なく笑う。
しかもそれがこぼれ、床にまで広がった。彼女らが帰ったあと、一人で泣きながら雑巾とバケツで掃除した。匂いはまったく取れず、3日間ほど窓を開けっぱなしにした。
「この窓から、頭から飛び降りたら死ねるかな」と思った。その部屋は2階にあった。今でこそ無理だと分かるが、当時は毎日のように”飛び降りたい””怖い”を繰り返して泣いていた。

唯一味方だと思っていた母親は、引っ越して間もなく両親の喧嘩が耐えなくなったことで頼れなくなった。
周りに頼れる人がいないところで、仕事しかしない夫、小4~1歳の子供4人、犬1匹の世話をしなければならなくなったのだから無理もない。
喧嘩の原因は直接聞いたことは無いし、今後も聞くことは無いが、子供たちが寝る時間になって2階の寝室に入ってしばらくすると喧嘩が始まる。こっちがうとうとしていると怒鳴り声が聞こえてきて、寝るどころではなくなってしまう。
私はとにかく怒鳴り声が怖く、私が悪いわけでも無いのに泣いていた。内容までは聞こえてこなかったが、強いストレスだった。ひとつ下の弟は諦めたように「なんで姉ちゃんが泣いてんの。うるさいだけじゃん」と言っていた。逆になんでお前は平気なんだ、と不思議に思ったものである。

毎晩のように泣き叫ぶ母親を思うと、これ以上負担を掛けたくなかった。学校やクラスメイトのことは言わなかった。そういうのが都会(山奥に比べれば都会だった)のやり方なんだろうと自分に言い聞かせた。

そのうち、私もストレスをどうにかしたくなったのか、親の財布からお金を抜くことを覚えた。
最初は数百円、一番多い時は千円。犬の散歩ついでに公園近くの小さなお店に行き、お菓子やジュースを買って、食べることで発散しようとした。一時期ベビーチーズにやたらはまってそればっかり買っていた気もする。
悪いことをしている、という罪悪感もストレスを誤魔化してくれていたのかもしれない。
引っ越してから一年近くになり、つらい環境に慣れて来た頃にはさすがにやめた……はずだ。

この時期からの記憶は、思い出せることが少ない。
自己防衛機能が働いているのだろう。仕方がないし、思い出してもあまりいいことは無さそうだとも思う。

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