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記憶の記録2

時間制限30分。

保育園の次は、小学1年生の頃の記憶。
当時、東京都の足立区に住んでいた。マンションの1階で、隣の隣に同じクラスの友達がいた。その友達のママはすごく元気な人で、ベティちゃんが大好きだった。いつもベティちゃんが大きくデザインされたTシャツを着ていたのが印象に残っている。

黄色い帽子に赤いランドセル。制服は無かった。大体はスカートをはいていたような気がする。THE小学生女児スタイル。
家は狭かったから、外によく遊びに行った。

ある日、隣の隣に住む友達と一緒に、おじさんだったかおばさんだったか忘れてしまったが、それくらいの世代の人の家に行ったことがある。
親戚でも何でもない、知らない人だ。きっとお菓子にでも釣られてのこのことついて行ったのだろう。今考えると完全に通報ものである。
その知らない人の家にはカラオケがあった。ピーヒャラピーヒャラパッパパラパーと楽しく歌った記憶がある。
その人と会ったのは、その日が最初で最後だったような気がするから、きっと母親たちに知らない人についていくなと叱られたのかもしれない。

小学2年生に上がると同時に、東京から奥多摩方面にひたすら登って行った先の、丹波山村(たばやまむら)に山村留学として引っ越した。
本当に山そのものに人が住んでいる、というようなところだ。そこにあるのは緑、土、川、空。それだけだった。ひたすらに美しい。雪の降る冬は格別だ。
現代文明とは差がありそこは少し懸念すべきだったが、人間という動物が伸び伸び育つという点ではいい環境だったと思う。
狭い世間なので人間同士の色々はあるが、面倒な部分もあれば、助かる部分も大いにある。それに、小学校低学年くらいまでの子供たちには関係ない。

村役場が用意してくれたのは一軒家。お隣は、おじいちゃんがひとりでやっている豆腐屋さんだった。毎朝豆の香りがしてきたし、その美味しいお豆腐をいつも食べていた。今考えれば随分と贅沢である。
ちなみにアパートは、学校の先生たちの寮しか無かったような気がする。先生たちは異動があるから用意されていたのだと思う。外から移り住んでくる人間はほぼいなかった。元々住んでいる人々は代々土地を受け継ぎ、家を建て替えながら住んでいたのだと思う。

約35年の人生で、一番楽しかった数年の始まりである。

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