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さようなら、イエローカブ(前編)
別れは思いもかけないときに訪れるものである。
日曜日の今日、わたしは3年ほど乗っていたホンダのスーパーカブ50を手放すことになるかもしれない。事の顛末はこうだ。
先月のいつだったかは忘れてしまったが、関東一帯に雪が降った。その雪は絶対に積もるタイプの雪で、翌朝窓から外を覗いてみると見慣れた光景が白く覆われていた。
その日は妻の仕事が休みだった。だからこどもを保育園に連れていくのは妻の役目だ。わたしは原付で職場に向かうつもりだった。
わたしは雪道を原付で走ることには慣れていた。車がよく通る道であれば雪の轍の上を走れば問題ないし、住宅街の細い道はバランスをとりながらゆっくり走ればいい。わたしはろくでもない仕事を転々としてきたが、そのほとんどは配達業で、今は車で弁当の配達をしているが、それまでは三輪バイクなどに乗って配達する仕事ばかりだった。配達業はきつい。雪が降ろうが台風だろうが関係ない。どんな悪天候だろうとモノがあれば配達に行かされた。そんなわけでわたしは道悪には慣れている。競走馬だったら穴をあけるぜ。まったくもう。
しかし問題は原付バイクのエンジンがかかってくれるかどうかだった。わたしはホンダのスーパーカブに乗っている。年式も古くセルが付いていないタイプである。だからエンジンをかけるときはキックをしなければならない。一発でかかればいいが、冬の時期はエンジンが冷え切っていて、一発でかからないことも多い。出勤時間と道悪のことを考えると、あまり時間はかけることはできない。すこし粘ってダメだったら諦めて、妻は通勤用に使っているママチャリを借りることにしよう、とわたしは考えた。
防水カバーを取り払い、キーを差し込んだ。シートは経年劣化で破れかかっていてカバーをかけていたにも関わらず、中のスポンジがだいぶ水分を吸っているようだった。わたしはカブにまたがって気合い一発、キックした。
エンジンはかからなかった。もう一度キックした。エンジンはかからなかった。10分ぐらい粘ってみたがダメだった。もう右太腿の筋肉が張ってプルプルしてきた。これ以上粘ったら職場に着く前に疲れ切ってしまいそうだから、予定通りその日は原付で行くことを諦めて、妻のママチャリで行くことにした。
別の日、また妻が休みの日に試したが、エンジンはかからなかった。数日後も試したが同じだった。どちらも天気は悪くなかった。
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そして今日である。わたしはスパークブラグを疑った。一年ぐらい前に似たようなことがあったのだ。その時は本を参考にしながら自分で新しいものに交換してみた。エンジンも問題なくかかったから、今回も自分で交換することにした。今思うとそれがいけなかった。
ちなみにスパークプラグというのは、ガソリンエンジンのシリンダー内で生成された混合気(燃料と空気が混ざったもの)に火をつける装置である。エンジンが動く詳しい説明は省くが、とにかくこれがないとエンジンはかからない。スパークプラグはシリンダーヘッドと呼ばれる部分に斜めに差し込んで、工具を使って固定するのだ。
わたしはレッグカバーを外し、プラグキャップを外した。それからT字のソケットレンチを差し込んで、どうにかこうにかしてスパークプラグを取り外した。見ると、プラグの先端は真っ黒く、煤みたいなものがこびりついていた。これじゃあエンジンがかからないわけだ。幸い、前回交換したときにあらかじめ多く買っておいた新品のプラグがあった。わたしは箱を開けて新品のプラグを差し込んだ。メンテナンス本には「取り付けの際は、必ず最初は手でねじ込み、問題なく根本近くまでねじ込めたら、レンチを使い、本締めをする」と書いてあった。前回と同様、わたしはそうした。
ところがプラグは根本まで行く前に止まってしまった。いくら指に力を込めてもそれ以上プラグをねじ込むことができなかった。斜めに入ってしまったかもしれないと思って、何度も入れ直したが結果は同じだった。わたしはすこし考えた後、とりあえずレンチで締めてみることにした。かなり力を入れたが、すこしねじ込めた程度だった。
根本までプラグがねじ込まれたとは思えない。しかし、かといってどうすることもできず、半信半疑のまま、わたしは一旦エンジンをかけてみることにした。キーを差し込んで、シートに跨り、気合い一発、キックした。
パンパンパン!
乾いた破裂音が足元で炸裂した。やはりちゃんとねじ込まれていなかったようだ。わたしは原付を降りて、キーを抜いた。
「なんの音?」こどもが外に出てきた。
「バイクが故障したみたいだ」
わたしは腕時計をみた。14時半だった。近くにバイク屋があった。そこはエンジンオイルの交換など、過去に二回ほど利用したことがある。自民党のポスターを貼っているが、原付を手押しで行くとなるとそこしかなかった。今日を逃すとまた一週間先になる。相変わらず身体は疲れているが、そんなのいつものことだ。体調が万全な日なんてここ数年ない。つまり、行けるってことだ。
「バイク屋に行くしかないみたいだな」
「ぼくも行ってもいい?」
「いいとも」
「サンダルで言ってもいい?
「もちろん」
こどもをシートに乗せてやった。子供は嬉しそうだった。わたしは手でカブを押した。雲ひとつない快晴で気持ちがよかった。わたしたちはコートを着ずに近所のバイク屋に向かった。
(すみません、大した話でもないのに、続きます。そろそろ寝ないと明日の仕事に支障が出るので、もう寝ます。おやすみなさい)
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