2024/05/13_反応閾値について

先日Twitter(現X)(Twitter原理主義者)にて、「反応閾値」なるものに触れた漫画を見かけた。リンクを貼ろうと思ったがなんか上手くいかなかったので「あくまでクジャクの話です。」という漫画らしいということを記載しておく。

この反応閾値なる考え方,非常に覚えがある。と言うのも自分は大半のことを「気にしない」性格であるのに対し、妻はありとあらゆることをものすごく「気にする」タイプだからである。簡単で極端な例を挙げれば、妻は毛が一本でも落ちていることに耐えられないので毎日でも掃除機をかけたいし、自分は数週間掃除をしなくても平気である。ただ、こんなカッコ良い言い方じゃなくてもっと身近な表現を使えば、「気にしい」と「大雑把」とも言える。自分は仕事で嫌なことがあってもまあ死なないしとそこまで気にせず流せるが、妻は自分がミスしたわけではなく、ミスの種を生んだかもしれないと思っただけで1日中暗い顔で俯いてしまうこともある。

ストレスフルで人生しんどそうだなと思う一方で,時間を有効に使っているのは圧倒的に向こうである。怠惰であるが故に、無の時間が自分は非常に多いからである。(やらないといけないと思っている身の回りのことが少ないからではあるが)
向こうは最悪を想定するし、自分は理屈上起きえないと思ったことは想定しない。向こうは完璧を求めるし,自分は死ななければなんでも良いと思ってる。どっちが良いんだろうね。
一方で,死ななければ良いという価値観である以上、口に入れるものに関する衛生観念は自分の方が強いので、妻にそこまでしなくてもと言われることもある。結局お互い様やね
そんな自分でも長きにわたる調教の結果定期的な掃除は板について来たし、きっと一人暮らししてもこれはやるだろうと思っているから、人間わからないものである。

特にこの話にオチはないが,強いて言えば社会というコミュニティを形成する以上、異物を排除するのではなく、対話による折衝・交渉によって調整を行なって均衡を保つのが大事なのだなあと思った。なんでこんな結論になってんだ。
今日は疲れたし頭も回らず意味わからんこと書いているのでこのあたりで
誰に見られずとも面白い文章を常に出力できる人間になりてえな

ほなまた

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