「夢みる小学生」という映画をご存知ですか?
今の学校教育に疑問を持つ個性的な学校を紹介しているドキュメント映画。
しかも、ここで紹介されている3校のうち、2校は公立の小学校と中学校。
そして、もう一校は私立の小学校。
フリースクールではなく、文科省から認可された小学校です。
私自身映画を見たわけではないのですが、『夢みる小学校』を撮った
オオタヴィン監督と汐見稔幸さんとの対談がとっても面白かったのです。
ちなみに、汐見先生のことは、今回始めて知りました。
教育学者であり『教育哲学者』とも呼ばれている方で、教育や育児に関する著書を多数出版されているようです。
この対談から二、三気になったことをお話します。
学校って、楽しだけじゃだめですか?
楽しいことを自らやっている時が一番ニューロンが発火して、結果として学びになるのに、学校の現場では
「楽しいだけでなく、⭕️⭕️ができないと」
みたいな話がいつもついてまわると。
この対談の中で、靴箱で遊ぶ園児の話を紹介されていました。
靴箱で夢中になって遊ぶ子に
「靴箱は遊び場ではありませんよ」
と言って園児を連れていく先生のお話。
社会常識を教えている。
別に間違ったことを先生がしているわけではない。
そう感じる方もいるでしょう。
しかし、子供はそうやって興味・関心のあることを奪われて、つまらない常識の中で収まっていくようになる。
オオタヴィン監督自身がまさに、そのような子供だったそうで、そういう子供のたちの個性がどんどん潰されているのでは?
そんなお話をされていました。
しかし、そんな個性を育てても、普通の学力は身につくのか?
その先の進学は?
そんな疑問を持つ方もいるかもしれません。
現役公立中学校の教員である私も、
確かにそれは理想の教育ではあるけれど、周りと違いすぎると、その先が大変なのでは?
なんて疑問を持ちました。
しかし、この映画で紹介されている、個性的な教育を行っている学校の卒業生の進路を追跡すると、結果として他とは違う自ら考えて行動できる大学生に成長し、優秀な成績で社会に出て活躍しているという実態が紹介されていました。
つまり、長い目で見ると、最終的に学び続けて、力を伸ばし、生き生きと社会に出て活躍している卒業生が多いという事実。
学習指導要領も『探究的な学び』を謳っているように、本来はこちらが学びの本筋なのではないかとも感じました。
対談の中では、このような学校が特別なのではなく、たくさんある学校の選択肢の一つとしてある。
そんな多様性が公立・私立合わせての学校選択あって良いのでは?
日本一律どこでも、同等の教育サービスが受けられるという義務教育の実態が果たして本当に子供ファースストになっているのか?
子供が楽しんで学べる学校になっているか?
現役中学校教員として大いに考えされられました。
フリーランス小学生
増え続ける『不登校』自体が、今の教育システムの破綻を端的に表しているのではないか?
実は、私も同じことを感じていました。
一律に同じことをやらされる。
効率は良いけれど、個人の興味関心を喚起する仕組みには程遠い環境にあると感じています。
しかし、そんな中でも同じ公立の中学校でも『校則廃止』、『定期テスト廃止』を実現させた西郷校長先生のことは、私も存じ上げていました。
実は、こちらの本を退職される同僚からプレゼントされたことが、西郷先生のことを知るきっかけでした。
この本に挟まれていた栞に書かれてた言葉。
「先生の力で⭕️⭕️中を、こんな笑顔の溢れる学校にしてください」
そんなお言葉を退職される先生から託されたのです。
この本に書かれていることは、理想でした。
問題は、現認校の現実の中でどう擦り合わせて実現させていくか。
これが、残りの教員人生3年間の課題だとも感じています。
幸いなことに、笑顔が以前よりも増え、生き生きと学校生活を楽しんでいる生徒が多くなってきてはいます。
しかし、かなりの不登校生徒がいる現状はなかなか一筋縄では解決できない毎年の課題となっています。
学校のあり方を抜本的に変えることが必要なのではないか。
そんなことを感じています。
そもそも『不登校』という呼び方。
かつては、『登校拒否』と呼ばれていました。
さらに、驚くべきことに『登校拒否』は病気で『治療が必要』とされていた時代があったということをこの対談で知ってびっくり!
2017年に施行された『教育機会確保法』が多様な学びを保障しているのにも関わらず、『不登校』という呼び名には、どこか『学校』こそが唯一の学びの場しているような響きがある。
そこで、呼び方を変えてみては?
と募集して出てきたのが
フリーランス小学生(笑)
特定の学校に席を持たず
「私、学びたいところで学びますので」
みたいな強い意思を感じませんか(笑)
ネーミング一つでイメージが変わりますよね。
小さなことかもしれませんが、言葉の印象って大きいものです。
『登校拒否』から『不登校』に変わったように、
『フリーランス学習者』でいいのではないかな。
そんなことを感じました。
発達障害という言葉も変えられないか?
呼び方がネガティブなものとして、もう一つ話題として上がっていたのが、
『発達障害』という言葉。
ここでは、スピルバーグとトムクールーズが『識字障害』であるという有名なエピソードが紹介されていました。
脳の中で凸凹があるのは当たり前。
ただ、その凸凹がマイノリティーなだけ。
そもそも、脳は多様だと。
この対談では、『発達障害』に変わって
『ニューロダイバーシティ』
という表現をされていました。
『脳神経の多様性』といった感じでしょうか。
『障害』という言葉にはどうしてもネガティブな印象を持ってしまいますよね。
『害は取り除く』みたいな。
そうではなく、多様性の一つである。
そんな多様性の中で私たちは、協力しながら生きている。
違いがあるから、自他を知り、労り、助け合って、共に社会を作っていく仲間。
話はちょっとそれますが、『障害者雇用』に積極的な日本理化学工業。
※ちなみにこちらの会社は、『障害者』を会社の方針として多数雇用し、業績を上げています。決して、障害者を弱者として雇用している訳ではなく、『合理的な配慮』をすることで貴重な戦力として雇用しているのです。
話を戻します。
しかし、どうしたって、『障害』という言葉からは、やはりポジティブなイメージが持ちづらい。
そんなことを感じました。
終わりに
本来なら『夢みる学校』をみて、この記事を書いた方が良いのかもしれません。
しかし、教員である私の心を揺さぶるに十分な対談でした。
というか、いつも理想と現実の間の中でバランスをとりつつ、『本当にこれでいいのか?』と自問して来たのかもしれません。
あの学校だからできることで、うちの学校では無理!
そう思い込んだら、1ミリもポジティブな取り組みはできません。
じわじわとでも、やっぱり生徒たちの笑顔が弾ける学校が心地いい!!
そう思って日々の教育活動に取り組んでいます。
学校祭のようなイベントでは、教師も生徒も笑顔で楽しみ達成感を味わいました!
部活も、個人的には「自ら探究する』活動を組織しやすいですし、実際、個人のやる気を育むサポート的な指導に変えてから、生き生きと生徒たちは活動し、驚くようなプレーを見せたり、ピンチの場面でも互いに声を掛け合って乗り切ろうと努力するなどの逞しさ見せるようになりました。
やはり課題は授業でしょうか。
タブレットを活用し、探究的な学びを!
と学校ぐるみで取り組んではいますが、そもそものスタートラインとして昔ながらの『教師』が『生徒』に『勉強』を教えるという枠組みであるため、行事のような嬉々とした取り組みにはなってはいきません。
頑張って、やらされる
のは勉強。
学びは、自ら進んで行うもの。
そんなことを対談では言っていました。
生きる力につながる学び。
これって、私がずっとテーマにしてきた
心の根っこを育む
ということと相通じるものだと改めて感じました。
方向性は全くぶれてない。
でも、これが難しいんですけどね。(苦笑)
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