バジャウ族に魅了された一人の大学院生②

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 それは3度目のフィリピンセブ島への訪問の時に起きた。そう、3度目のバジャウ族で。

そこでは木の板を釘で留めて作られた不安定な道を渡るのが日常である。

スリルと「万が一落ちたらどうしよう」というちょっとの恐怖を、ヘドロの匂いを感じながら、爆音で流れている音楽に耳を傾けながら。

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ここに来るのも3回目なので、その道を渡ることに対してなんら怖いと思うことはない。むしろ渡るのが楽しいくらいだ。下がヘドロの海ということがより一層心拍数を上げ、アドレナリンを放出する。

水浴びをしたり、ご飯を食べに行く時はこの橋を渡るしかないので、誰でも慣れる。まさに「習うより慣れろ」である。

滞在を終えてその村を発とうと、スーツケースを片手にリュックを背負いながら橋を渡っていると、女の子が前から勢いよく歩いてきたので、道を譲るために端にあった別の木の板に移ろうと足を踏み入れた。

 その瞬間、「ああああっっっっっ」っと思わず声をあげてしまい、今までに感じたことのない痛みが走った。

その瞬間「あーあ。これはやってしまったなぁ」と思いながら恐る恐る下に目を向けると、今までに見たこともないくらい濃い血が滝のように流れていて、木の板の一部を真っ赤に染めていた。

そう、木の板に刺さっていた釘が運悪くなぜか天を仰いでいて、左足がそこに見事に着地してしまった。足の端でも前でも裏でもなく、ど真ん中に釘がまずサンダルを貫き、次いで足の中を1センチ以上中に侵入していった。

刺さったあとなぜか全身が熱を帯び始め、得体の知れない恐怖が襲いかかってきた。

確かに痛かったけど、なんだかんだで歩けるし、まあ大丈夫やろうと思い、とりあえずカジノに行って、その後チキン食べ放題の店で腹を満たして早々とホテルに向かった。

 ホテルに着くと次第に足の痛みが普通に歩けなくなるぐらいにまでひどくなってきたので、不安になって「足に釘が刺さる」でググってみた。

そこで俺にとっては驚愕するようなことが書かれていた。

「釘が刺さったら至急病院に行きなさい、さもないと破傷風に感染する恐れがあります。感染すれば高確率で「死にます」よ」って。死、死、死にますよだと?

一瞬俺の中で時間が止まり、魂が抜けてしまった。「えっ、俺ってもうすぐ死んでしまうのか」っと思い、慌てふためき、パニックになった。(この時俺は初めて破傷風という単語を知った。)

心臓の鼓動は一段と激しさを増し、冷静さを完全に失ってしまった。

セブでの滞在時間はまだ数日残っていたけど、居ても立ってもいられなくなり翌日に急いで帰国した。

とにかく早く日本に着きたい一心で、マニラ空港の黄色タクシーでおっさんにボラれた(といっても日本円にして500円ほど)けど、それよりもさらに高い額を自ら払うぐらいに冷静さを失っていた。


 この出来事によって、まだ遥かに遠い存在でしかなかった「死」が突然自分の目の前にそびえ立った。

「一つ一つの物事には必ず何かしらの意味がある」と思う性だが、しばらくの間この釘事件が何を意味するのかまったく分からなかった。

いくら考えても答えは出てこないし、そうしている間にも「釘についていた細菌が俺の体内を疾走して脳を目指し、「生」を食べ尽くして、俺の体は「死」で覆われるんじゃないか」と考えてしまい、再び脈が激しくなり平静さを失ってしまった。


 それから3週間ほど後になって、あの釘の意味することがわかってきた。

人間はいつ死ぬかわからない。長々と平和に生きていられるいるだけでも奇跡を存分に享受してるし、もう一度自分の人生について考え直してみたらどうか、どんな生き方をしたいのかをちゃんと考えろ、ちゃんと自分と向き合え」って、「直感」がはたらいた。


 もしかしたら破傷風にかかって死んでいたかもしれなかったけど、幸いにも息の根をとめられることはなかった。

これも奇跡だし、まだ生きることを許してくれた。

もし、あと1週間後に死ぬことが決まっていたら、現時点で自分のやりたいことリストの1%も実現できていないから、生きてることに感謝できず、「あぁもっとあの時こうしてたらよかったなぁ」という後悔だけが残るだろうなって思った。

「ああ、これは今の自分の人生に満足していない証拠なんや」と思うとゾッとした。

スティーブ・ジョブズの「今日が人生最後だとしたら、今日やることは本当にやりたいことだろうか?」という問いに堂々と「イエス」と答えることができなかった自分が情けなく思えた。

だらだらとただ「存在してる」だけの自分が惨めに、虚しく、腹立たしく感じた。

生きられることが当たり前で平凡になっていたから、生きることに対する「情熱」を失っていた。

だからといって、大学院という最高の環境でやっている研究が「やりたくないこと」って言ってるわけじゃない。でも「別に今ではないし、ましてやそれに一生をかけるほどの熱意は、今はない」っていうのが今の自分の嘘偽りない本心だった。


 気がつけば「もう」26歳。人生の3分の1は終わったと言ってもいい。俺からすれば人生なんてあっという間。

悩むのも悪くはないけど、そう時間はかけられない。宇宙は138億歳で無限の生命が、地球も46億歳でまだ50億年以上の寿命がある。

それに比べて俺の寿命はもう50年ほどしかない。宇宙から見れば、人間の寿命なんて蝉の寿命となんら変わらないし、あまりにも短すぎて眼中にすらない。

それなのに、頭だけ酷使してイライラやストレスを蓄積し、健康な四肢を使わないでただ毎日を過ごすのはなんともったいないことか。

そう思うと今の生活は、自分が描いている理想からは何億光年も離れているように思えた。


 そこから俺は「情熱を持って、燃焼できるものを見つける、これが今自分のやりたいことや。いつ死んでも自分に「生」を預かったことを感謝できるようにしよう」と決めた。

どれだけ時間をかけて頑張って努力しても、苦労したって、好きなことに夢中になって情熱を注いでる人には足の小指にも及ばない。(努力や苦労を否定する気はまったくないが)

だから頑張る自分じゃなくて、何かに「ハマってる」自分でありたい、そんなことを一本の釘が教えてくれた。ありがとう、釘さん。


 自分が一番熱中できるものは何か、それを知るために俺は「世界の図書館」に再び足を踏み入れることにした。「学校」ではなく、「図書館」に。

そう、「誰かから世界のことを教えてもらうんじゃなくて、自分の五感を使って世界を、地球を存分に感じよう」って。

その1冊目として、ここ最近日本でもめちゃくちゃ注目されている、南コーカサス三国の一つであるジョージアを選んだ。


 そしてこれからは1年に1回しか訪れない自分の誕生日を特別なものにしたいから、これまで足を踏み入れたことのない国でこの特別な日を迎えたい。

言葉も気候も風習も違う地球のどこかに、自分を両手を広げて受け入れてくれる居場所があるのじゃないかという淡い期待を抱きながら。


 コロコロと考えは変わるし、めちゃくちゃ気分屋だけど、絶対にブレないところはフランス人哲学者のモンテーニュの言う「誰にも左右されず、自由でいられる術を身につける」こと。

そしてこれこそ「これからの人生で一番大切なこと」だということをバジャウ族が教えてくれた。

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自由を追求し、それに向かっていると俺は「生きている」し、死が訪れたときも「あのときこうしていればよかったな」なんて弱音を吐くこともなく、「俺は自分の生を空っぽになるまで十分活かすことができた、後悔することはもうない」って断言できると思ったから。


 めちゃくちゃダラダラと書いたけど、投稿することにした。これからも誰かのために「役に立つ」ようなものではなくて、「役には立たないかもしれんけど、なにかを感じられるような」、そんな随想録を書いていきたい。

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