良い死に方についてちょっと考えてみた
ちょっと前にFacebookでこんなイベントの招待がきた。
「良い死に方」かぁ。
いや、めちゃくちゃおもしろそうやん!!これはいくしかないと思って速攻で参加を決めた。
普段から人の多いところに行くのは苦手なので、こういうイベントに行くか行かないかは結構時間をかけて考えてしまうけど、「死に方」の3文字を目にしただけで「行く!」と決心した。
「死」に関するテーマってに日常生活ではほとんど触れられないし、なんならちょっと距離を置きたくなるような人も少なくないような気がする。
まあ事実、とても曖昧でまた難しく、考え方はまさに十人十色で、答えなんて見つからない。なんなら「こんなのやって何の意味があるんや」とか「話しても何も変わらんけどな」っていう声も聞こえてきそう。
俺は大学院でフランス文学を勉強しており、ちょうど死生観に関する作品を読んでいたこともあって、ここ1年くらいはこのことについてあれこれと考えを巡らすことにハマっていたから、こういう話題についてちょうど他の人の価値観を知ってみたいと思ってたところだった。
ここでは、そのイベントの中で特に記憶に残っていることを覚えている範囲で、また俺の死生観についても軽く話そうかなと思う。もし、反対の意見やコメントがあれば遠慮なく書いてもらえるといろんな考えが聞けるのでありがたい。
最初はお決まりの自己紹介から始まった。紹介するのは「名前」と「今の健康状態を10段階で表すとどこにいるか」そして「死ぬまでにやりたいこと」の3つ。まさか自己紹介で今の健康状態を聞かれるとは思っていなかった。
健康か不健康かの基準は人によってさまざまで、俺は身体的側面と精神的側面の両方を考慮して8にした。でもこのイベントがもし半年前に行われていたら、多分2か3にしていたと思う。少なくとも半分はなかった。
というのも、半年前に足の裏に釘が刺さるというなかなか俺にとっては刺激の強い怪我をしたことで精神的な傷も深いところまで及んでしまい、「健康」という2文字が裸眼では見えないくらい離れていた。
それに加えて、ちょうどそのときは進路に迷っていて決断できない日が続き、そのせいでお腹が減らなくて飯が喉を通らなかったり、ちょっと不都合なことがあるとイライラしたり、寝る前に余計なことをあれこれと考えて最終的には眠れなかったりと精神はとてもグラグラしていた。
それが今では納得のいく答えが導き出せて決断でき、言うべき人に伝えることができたので、長くのし掛かっていた重りが取り除かれ、心に隙間と余裕ができてクリーンになった。だから8にした。いや、8まで戻すことができた。
周りを見てみると、満点をつけた人もいたし、半分以下の人もいた。興味深いのが、この点数が高いから健康で、低いから健康ではないということだった。
「自分は10点とわざと言い切ることで、モチベーションだったり、気持ちを高めることができるんだ」という人もいれば、
「いや、自分はあえて点数を低くすることで、現状をしっかり見つめることで無理に頑張る必要もないし、低いからといって自分に満足していないわけではない」という人もいて人によってさまざまでだった。
この自己紹介の時点で、「今日のイベント間違いなくおもしろくなるぞ」っていう確信があった。
次が「死ぬまでにやりたいこと」である。意外と俺は迷った。やりたいことはたくさんある反面、やりたいことなんてこれから先いくらでも出てくるから今これだと断言できるものがパッと思いつかなかったからだ。
でもヨーロッパのすべての国に俺の足跡を残すことだけは成し遂げたいと前々から思っていたので、それを言った。
ここでも意外だったのが、誰一人として、高級車を買うとか、お金持ちになりたい、家を買いたいなどの物的欲求を書かなかったこと。「〇〇になりたい」「〇〇に行きたい」「幸せになりたい」「ストレスのないような生活、人生を送りたい」と言ったような願望を持っていた。
こう言うと、「じゃあ幸せってなんや」って思うかもしれないけど、ここでは幸せについて考えるといろいろと話が飛んでしまうので、今回はやめておく。
自己紹介が終わって次は「安楽死」というテーマだった。これはまさに死に方の問題でもあって一層重い話だが、ここはさらっと触れるだけにする。
世界でもごく稀にこの安楽死を容認している国が存在する。例えばスイスやベネルクス三国(オランダ、ベルギー、ルクセンブルグ)、カナダ、コロンビアなど。
「安楽」という字が使われているので、一見すると、安らかで楽な死に方のように聞こえるかもしれないが、実際は医師の立ち会いのもとで他殺や自殺幇助が行われるため自分一人で穏便な死を迎えることはできない。
そのように見ると、安楽死が周りに大きな影響を及ぼすことは免れ得ないので、実は相当に重い選択肢ではないかと思う。
それでも俺は、生まれるときは誰しも自分の意思では絶対に成し遂げられないが、死のタイミングや決断は自分の意思で行うことができ、それが本人にとって最良の選択になることもあり得るのではないかと思う。
俺にとって、良い死に方とは、「自分のタイミングで、自分で決断した方法で死を迎える」ことではないかな。だから、安楽死が賛成か反対かと言われると、どちらとも言えないっていうのが正直なところ。
次は2つのグループに分かれてディスカッションをした。そのグループ分けは「死後の世界が存在するか否か」だった。俺はあえて存在しない方にした。
死後の世界が存在することは、大学の勉強の関係で少しかじったことがあるので、その立場も理解はできるが、もし自分が死んだ時にそのあとの世界が存在することや自分が来世で過ごしていることなんて想像できなかったからである。
だから俺は肉体が無くなると魂も消えてしまい、死後は「無」になるという立場をとった。ここは意見が分かれることですごく聞きがいがあった。でもこのテーマは証明ではなくて、想像によるところが多いのでここもさらっと触れるだけにしておく。
テーマからは脱線してしまうけれど、このグループ議論の中で「死の受容プロセス」という話が出てきて、俺はそれを知らなかったのでここに書いておこうと思う。
この「死の受容プロセス」はエリザベス・キューブラー・ロスという精神科医が提唱したものであって、死に至るまでのプロセスは大きく5つあるという。もちろん、これはすべての人がたどるわけではない。
1 否認・隔離
これは自分が死を迎えるということを全く受け入れられず、「何かの間違いである」と疑っている状態。隔離とは自分の周囲にいる人は、この死の事実を知った上で話を進めるので、当の本人は周囲から距離を置きたくなって孤立してしまう。
2 怒り
「なんで自分が死ななければならないのか」と納得できず、他人に怒りをぶつけてしまい、心が怒りに支配されている状態。健康な人や自分よりも長く生きられる人を敵視してしまって皮肉や暴言を吐いてしまうこともある。
3 取引
信仰の有無は関係なく、「どうにかもう少しだけでも死の迎えを先に伸ばす事はできないか、またはどうか伸ばしてほしい」と神に懇願して取引をする。この段階では死を受け入れられるまでには至っている状態。
4 抗うつ
死ぬことは必然でどうにもならず死を避けられないことを悟る状態。絶望や悲嘆に暮れると同時に頭だけでなく心でも自分の死を理解できるようになる。無気力状態や虚無感に陥ることもある。
5 受容
4段階まではなんとか死を回避できないか、少なくとも死を遅らせることはできないかとあれこれと詮索していたが、命はやがでどこかで終えること、それは「自然の摂理」であると考えるようになる。自分の死を受け止め、精神の落ち着きを取り戻す。
この死のプロセスの話を聞いて思ったことがある。それは、俺は1と2のプロセスなら辿らないようにできるんじゃないかって。
死は生物である以上避けては通れない。「死が向かってくる」と考えるとどうしても恐怖とか不安を抱いてしまう。まるで一車線しかない道路を車で走っているときに対向車が迫ってくるときに感じる恐怖のように。
そうじゃなくて、死を自分の横に置いて常に死に備えるようにすれば否認や怒りは生じないのではないかと思った。これは実際に自分で試したいことである。
こんなことを書くと、「常に死のことを考えるなんて暗そうな人」って思われるかもしれない。
でも根底には、「良い死に方を考えることは、よりよい生き方を考える/考え直す」ことじゃないかって思っている。
「まだ何年も生きられる」って思うと、どうしても1日くらい、1ヶ月くらいダラダラしてもいいやんってなりがちだけど、「明日生きられる保証はどこにもない」って思うと、絶対に後悔のないような自分にとって最良の生き方を考えて動くはずである。
どうやって生きるのが自分にとってベストなのか、誰と繋がることでよい生き方ができるのかを考えることはそんなに無駄なことではないはず。
だから自分と死を対面させるのではなくて、死と同じ方向を向いて一緒に歩みを進め、時が来たら物事をすべて受け止められるほどのメンタルを作っておきたい。
もう一つ。よりよい生き方ってあまりにも抽象的なので、もう少し深掘りしていくと、よりよい生き方を実現させるために必要不可欠なこと、言い換えれば、人生において一番大切なことはなにか。
個人的には「自由になれる術を身につけること」であると考えている。これは金銭的な自由だけでなくて、人間関係における自由の方が大きい。
束縛や拘束、制限、監視、我慢といった精神的な鎖からは解放されている状態で、常に責任を持って正しい判断を自分でしながら過ごすことが良い生き方をするのに欠かせないのではないか、そんなことを最後にグループディスカッションで言った。
最後のほうはテーマに沿って(死後の世界について)ではなくて、それぞれの死生観を共有する方に話は進んだけど、この類の主題は正解がないのでいくら聞いても飽きなかった。
久々にこういう議論を中心としたイベントに参加してみて、「やっぱり俺は人と話すことでいろんな意見や考えを聞いて、そこから何かを学ぶこと、そしてそれを活かすことが好きなんやな」って再認識できた。
自分の知らないことが無限にあるので、知らない→知った時の「知の喜び」が多分人一倍大きいんじゃないかな。だからこういうイベントにはこれからもどんどん顔を出していきたいし、個別にそういう機会を作れたらいいんじゃないか。そんなことを考えて家路に向かった。
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